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春秋左氏伝 / 襄公二十年 甯恵子の遺言

冬。季武子如宋。報向戌之聘也。褚師段逆之以受享。賦常棣之七章以卒。宋人重賄之。歸復命。公享之。賦魚麗之卒章。公賦南山有臺。武子去所曰。臣不堪也。衛甯惠子疾。召悼子曰。吾得罪於君。悔而無及也。名藏在諸侯之策。曰孫林父。甯殖。出其君。君入則掩之。若能掩之。則吾子也。若不能。猶有鬼神。吾有餒而已。不來食矣。悼子許諾。惠子遂卒。

新字:冬。季武子如宋。報向戌之聘也。褚師段逆之以受享。賦常棣之七章以卒。宋人重賄之。帰復命。公享之。賦魚麗之卒章。公賦南山有台。武子去所曰。臣不堪也。衛甯恵子疾。召悼子曰。吾得罪於君。悔而無及也。名蔵在諸侯之策。曰孫林父。甯殖。出其君。君入則掩之。若能掩之。則吾子也。若不能。猶有鬼神。吾有餒而已。不来食矣。悼子許諾。恵子遂卒。

書き下し

冬、季武子宋に如く。向戌の聘に報ゆるなり。褚師段之を逆へて以って享を受けしむ。常棣の七章以って卒はるを賦す。宋人重く之に賄ふ。歸りて復命す。公之を享す。魚麗の卒章を賦す。公南山有臺を賦す。武子所を去りて曰く、「臣堪へざるなり」と。衛の甯惠子疾む。悼子を召して曰く、「吾罪を君に得たり。悔ゆとも及ぶ無し。名は藏めて諸侯の策に在り、曰く、『孫林父・甯殖、其の君を出す』と。君入らば則ち之を掩へ。若し能く之を掩はば、則ち吾が子なり。若し能はずんば、猶ほ鬼神有らば、吾餒うること有らんのみ、來りて食らはざらん」と。悼子許諾す。惠子遂に卒す。

現代語訳

冬、季武子が宋に行った。向戌の聘問への答礼である。宋の褚師段(ちょしだん)が季武子を出迎えて、宴を受けるよう案内した。季武子は『詩経』の「常棣」を第七章から終わりまで歌った(兄弟の国の和合を願う意を示したのである)。宋の人々は季武子に手厚く贈り物をした。季武子は帰国して復命した。襄公は季武子をもてなした。季武子は「魚麗」の最後の章を歌った(時宜にかなった豊かなもてなしを受けたことを述べたのである)。襄公は「南山有台」を歌った(季武子を国の基として称えたのである)。季武子は席を離れて言った。「臣にはもったいないことでございます」。衛の甯恵子(ねいけいし、甯殖)が病気になった。子の悼子(甯喜)を呼んで言った。「私は主君に罪を得た。悔やんでも間に合わない。私の名は諸侯の記録に収められていて、『孫林父と甯殖が、その君を追い出した』と記されている。君(献公)が国に戻られたなら、その罪を覆い消してくれ。もしそれができれば、おまえは私の子である。もしできなければ、もし鬼神というものがあるなら、私は飢えるだけで、おまえの祭る供え物を食べには来ないだろう」。悼子は承知した。恵子はそうして亡くなった。

解説

前半は魯の季武子が宋に答礼に行った外交の記事で、詩を歌い交わして互いの好意を示す当時の作法が見える。帰国した季武子を襄公が「南山有台」で称えると、季武子は席を離れて「臣堪へず」と恐縮した。後半が重い。衛の献公を追放した当事者の一人、甯恵子の臨終である。彼は、自分の名が「孫林父・甯殖、其の君を出す」と諸侯の記録に刻まれていることを悔い、子の悼子に、君を国に戻してその汚名を覆ってくれと託す。できなければ、死後に祭られても供え物を食べには来ない、と言う。祖先祭祀を断つという、当時として最も重い言い方で子を縛ったのである。記録に残る名を、人がどれほど重く見たかがよく分かる。この遺言がのちに悼子を献公復帰へと動かし、衛の政変はさらに続いていく。記録された評判を、人はどこまで背負って生きるのかを考えさせる。

この章句が説くこと

汚名遺言悔恨記録名誉回復

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