春秋左氏伝 / 襄公十四年 衛君其れ必ず帰らん
告亡而已。無告無罪。公使厚成叔弔于衛曰。寡君使瘠聞君不撫社稷。而越在他竟。若之何不弔。以同盟之故。使瘠敢私於執事。曰。有君不弔。有臣不敏。君不赦宥。臣亦不帥職。增淫發洩。其若之何。衛人使大叔儀對曰。群臣不佞。得罪於寡君。寡君不以即刑而悼棄之。以為君憂。君不忘先君之好。辱弔群臣。又重恤之。敢拜君命之辱。重拜大貺。厚孫歸復命。語臧武仲曰。衛君其必歸乎。有大叔儀以守。有母弟鱄以出。或撫其內。或營其外。能無歸乎。齊人以郲寄衛侯。及其復也。以郲糧歸。右宰穀從而逃歸。
新字:告亡而已。無告無罪。公使厚成叔弔于衛曰。寡君使瘠聞君不撫社稷。而越在他竟。若之何不弔。以同盟之故。使瘠敢私於執事。曰。有君不弔。有臣不敏。君不赦宥。臣亦不帥職。增淫発洩。其若之何。衛人使大叔儀対曰。群臣不佞。得罪於寡君。寡君不以即刑而悼棄之。以為君憂。君不忘先君之好。辱弔群臣。又重恤之。敢拝君命之辱。重拝大貺。厚孫帰復命。語臧武仲曰。衛君其必帰乎。有大叔儀以守。有母弟鱄以出。或撫其内。或営其外。能無帰乎。斉人以郲寄衛侯。及其復也。以郲糧帰。右宰穀従而逃帰。
書き下し
亡を告ぐるのみにして、罪無きを告ぐること無かれ」と。公厚成叔をして衛に弔せしめて曰く、「寡君瘠をして聞かしむ、君社稷を撫せずして、越えて他竟に在りと。之を若何ぞ弔せざらん。同盟の故を以って、瘠をして敢へて執事に私せしむ。曰く、『君有りて弔ならず、臣有りて敏ならず。君赦宥せず、臣も亦た職を帥ゐず。增淫發洩す、其れ之を若何せん』と」と。衛人大叔儀をして對へしめて曰く、「群臣佞ならず、罪を寡君に得たり。寡君以って刑に即かしめずして、之を悼棄し、以って君の憂ひと為す。君先君の好を忘れず、辱くも群臣を弔し、又重ねて之を恤む。敢へて君命の辱きを拜し、重ねて大貺を拜す」と。厚孫歸りて復命し、臧武仲に語りて曰く、「衛君其れ必ず歸らんか。大叔儀有りて以って守り、母弟鱄有りて以って出づ。或いは其の内を撫し、或いは其の外を營む。能く歸ること無からんや」と。齊人郲を以って衛侯を寄す。其の復するに及びて、郲の糧を以って歸る。右宰穀從ひて逃れ歸る。
現代語訳
亡命したことだけを告げればよい。罪がないなどと告げてはならない」。魯の襄公は厚成叔(こうせいしゅく)を衛に遣わして見舞わせ、こう言わせた。「わが君は私、瘠(せき、厚成叔の名)に次のことを聞かせました。衛の君が社稷を治めず、国境を越えて他国におられると。どうしてお見舞いしないでいられましょう。同盟の誼(よしみ)によって、私にあえて内々に執事の方々へ申し上げさせます。『君は君として善くなく、臣は臣として努めが足りなかった。君は臣を許さず、臣もまた職分を守らなかった。過ちが積み重なって一気に噴き出した。これをどうなさるおつもりか』と」。衛の人々は大叔儀(たいしゅくぎ)に答えさせて言った。「われら群臣が不才で、わが君に罪を得ました。わが君はわれらを刑に処さず、われらを悲しみつつ見捨てて国を去られ、それが貴国の君のご心配となりました。貴国の君は先君以来の好誼を忘れず、かたじけなくも群臣を見舞い、さらに重ねていたわってくださいました。君命のかたじけなさを謹んで拝し、重ねて大きな賜りものを拝します」。厚孫(厚成叔)は帰国して復命し、臧武仲(ぞうぶちゅう、臧孫紇)に語った。「衛の君はきっと国に帰るでしょう。大叔儀のような者が国内を守り、同母弟の鱄(せん、子鮮)のような者が君に従って国外に出ています。一方は内を安んじ、一方は外で手だてを講じている。帰れないはずがありましょうか」。斉の人は郲(らい)の邑に衛侯(献公)を身を寄せさせた。のちに献公が衛に復帰するとき、郲の穀物を持ち帰った。右宰穀(ゆうさいこく)は献公に従って亡命していたが、逃げて衛に帰った。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』襄公二十六年 衛侯、晋に囚わる六月、公晉の趙武・宋の向戌・鄭の良霄・曹人と澶淵に會し、以て衛を討ち、戚の田を疆し、衛の西鄙懿氏六十を取りて、以て孫氏に與ふ。趙武書せざるは、公を尊ぶなり。向戌書せざるは、後るればなり。鄭宋に先んずるは、所を失はざればなり。是に於いて衛侯之に會す。晉人寧喜・北宮遺を執へ、女齊をして以て先づ歸らしむ。衛侯晉に如く。晉人執へて之を士弱氏に囚ふ。秋、七月、齊侯・鄭伯、衛侯の故の為に晉に如く。晉侯兼ねて之を享す。晉侯嘉樂を賦す。國景子齊侯に相として蓼蕭を賦す。子展鄭伯に相として緇衣を賦す。叔向晉侯に命じて二君を拜せしめて曰く、「寡君敢へて齊君の我が先君の宗祧を安んずるを拜す。敢へて鄭君の貳せざるを拜す」と。國子晏平仲をして叔向に私せしむ。
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『春秋左氏伝』襄公二十六年 衛献公の復帰二月庚寅、甯喜・右宰穀孫氏を伐つ。克たず。伯國傷つく。甯子出でて郊に舍る。伯國死す。孫氏夜哭す。國人甯子を召す。甯子復た孫氏を攻め、之に克つ。辛卯、子叔及び大子角を殺す。書して「甯喜其の君剽を弒す」と曰ふは、罪の甯氏に在るを言ふなり。孫林父戚を以て晉に如く。書して「戚に入りて以て叛く」と曰ふは、孫氏を罪するなり。臣の祿は、君實に之を有す。義なれば則ち進み、否なれば則ち身を奉じて退く。祿を專らにして以て周旋するは、戮なり。甲午、衛侯入る。書して「國に復歸す」と曰ふは、之を納るればなり。大夫の竟に逆ふる者は、其の手を執りて之と言ふ。道に逆ふる者は、車よりして之に揖す。門に逆ふる者は、之に頷くのみ。公至り、大叔文子を讓めしむ。曰く、「寡人外に淹恤す。二三子皆寡人をして朝夕衛國の言を聞かしむ。吾子獨り寡人に在らず。古人言へること有り、曰く『怨む所に非ずんば怨むこと勿かれ』と。寡人怨めり」と。對へて曰く、「臣罪を知れり。臣不佞にして、羈絏を負ひて以て從ひ、牧圉を扞る能はず。臣の罪一なり。出づる者有り、居る者有り。臣貳して外內の言を通じ以て君に事ふる能はず。臣の罪二なり。二罪有り、敢へて其の死を忘れんや」と。乃ち行き、近關より出づ。公之を止めしむ。衛人戚の東鄙を侵す。孫氏晉に愬ふ。晉茅氏に戍る。殖綽茅氏を伐ち、晉の戍三百人を殺す。孫蒯之を追ふも、敢へて擊たず。文子曰く、「厲にも之れ如かず」と。遂に衛の師に從ひ、之を圉に敗る。雍鉏殖綽を獲たり。復た晉に愬ふ。
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『春秋左氏伝』襄公十四年 狐裘にして羔袖衛人將に之を殺さんとす。辭して曰く、「余初めを說ばざりき。余は狐裘にして羔袖なり」と。乃ち之を赦す。衛人公孫剽を立て、孫林父・甯殖之を相けて、以って命を諸侯に聽く。衛侯郲に在り。臧紇齊に如きて衛侯を唁す。之と言ふに虐なり。退きて其の人に告げて曰く、「衛侯其れ入るを得ざらん。其の言は糞土なり。亡びて變ぜず、何を以ってか國に復せん」と。子展・子鮮之を聞き、臧紇に見えて之と言ふに道あり。臧孫說びて、其の人に謂ひて曰く、「衛君必ず入らん。夫の二子なる者、或いは之を輓き、或いは之を推す。入る無からんと欲するも得んや」と。師秦を伐つより歸る。晉侯新軍を舍つ、禮なり。成國は天子の軍の半ばに過ぎず。周は六軍と為す。諸侯の大なる者、三軍にして可なり。是に於いて知朔盈を生みて死し、盈生まれて六年にして武子卒す。彘裘も亦た幼く、皆未だ立つべからず。新軍帥無し、故に之を舍つ。
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『春秋左氏伝』哀公十五年 子貢、成を取り戻す秋、齊の陳瓘楚に如く。衛を過ぐ。仲由之に見えて曰く、「天或いは陳氏を以て斧斤と為し、既に公室を斲喪して、他人之を有するも、知る可からざるなり。其の終に之を饗けしむるも、亦た知る可からざるなり。若し魯を善くして以て時を待たば、亦た可ならずや。何ぞ必ずしも惡まん」と。子玉曰く、「然り。吾命を受けたり。子使ひして我が弟に告げよ」と。冬、齊と平ぐ。子服景伯齊に如く。子贛介為り。公孫成に見えて曰く、「人皆人に臣たり、而して人に背くの心有り。況んや齊人子の為に役すと雖も、其れ貳かざること有らんや。子は周公の孫なり。多く大利を饗くるも、猶ほ不義を思ふ。利得可からずして、宗國を喪はば、將た焉んぞ之を用ゐん」と。成曰く、「善い哉。吾早く命を聞かざりき」と。陳成子客を館して曰く、「寡君恆をして告げしめて曰く、『寡君君に事ふること衛君に事ふるが如くせんことを願ふ』と」。景伯子贛に揖して之を進む。對へて曰く、「寡君の願ひなり。昔晉人衛を伐つ。齊衛の為の故に、晉の冠氏を伐ち、車五百を喪ふ。因りて衛に地を與ふ。濟より以西、禚・媚・杏以南、書社五百。吳人敝邑に加ふるに亂を以てす。齊其の病に因りて、讙と闡とを取る。寡君是を以て寒心す。若し衛君の君に事ふるを視るを得ば、則ち固より願ふ所なり」と。成子之を病む。乃ち成を歸す。公孫宿其の兵甲を以て嬴に入る。衛の孔圉大子蒯聵の姊を取り、悝を生む。孔氏の豎渾良夫、長くして美なり。孔文子卒す。內に通ず。大子戚に在り。孔姬之をして焉に使ひせしむ。大子之と言ひて曰く、「苟も我をして入りて國を獲しめば、冕を服し軒に乘らしめ、三死まで與(あづか)ること無からしめん」と。之と盟ふ。為に伯姬に請ふ。
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『春秋左氏伝』襄公二十六年 政は甯氏、祭は寡人衛の獻公、子鮮をして復を為さしめんとす。辭す。敬姒強ひて之に命ず。對へて曰く、「君信無し。臣免れざるを懼る」と。敬姒曰く、「然りと雖も、吾が故を以てせよ」と。許諾す。初め、獻公甯喜と言はしむ。甯喜曰く、「必ず子鮮在れ。然らずんば必ず敗れん」と。故に公子鮮を使はす。子鮮命を敬姒に獲ず、公の命を以て甯喜と言ひて曰く、「苟くも反らば、政は甯氏に由り、祭は則ち寡人」と。甯喜蘧伯玉に告ぐ。伯玉曰く、「瑗は君の出づるを聞くを得ず、敢へて其の入るを聞かんや」と。遂に行き、近關より出づ。右宰穀に告ぐ。右宰穀曰く、「不可なり。罪を兩君に獲ば、天下誰か之を畜はん」と。悼子曰く、「吾命を先人に受く。以て貳すべからず」と。穀曰く、「我請ふ使ひして之を觀ん」と。遂に公に夷儀に見ゆ。反りて曰く、「君外に淹恤すること十二年なり。而も憂色無く、亦た寬言無し。猶ほ夫の人なり。若し已めずんば、死するに日無からん」と。悼子曰く、「子鮮在り」と。右宰穀曰く、「子鮮在るも何の益かあらん。多くとも能く亡げんのみ。我に於いて何をか為さん」と。悼子曰く、「然りと雖も、以て已むべからず」と。孫文子戚に在り。孫嘉齊に聘し、孫襄居守す。
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『春秋左氏伝』襄公十四年 子囊の忠秋、楚子庸浦の役の故を為て、子囊棠に師して以って吳を伐つ。吳出でずして還る。子囊殿す。吳を以って能はずと為して儆めず。吳人皋舟の隘より要して之を擊つ。楚人相救ふ能はず。吳人之を敗り、楚の公子宜穀を獲。王劉定公をして齊侯に賜はしめ、命じて曰く、「昔伯舅大公、我が先王を右け、周室に股肱たり、萬民に師保たり。世々大師に胙して、以って東海に表す。王室の壞れざるは、繄れ伯舅是れ賴る。今余女環に命ず。茲に舅氏の典に率ひ、乃の祖考を纂ぎ、乃の舊を忝むること無かれ。之を敬めよや。朕が命を廢すること無かれ」と。晉侯衛の故を中行獻子に問ふ。對へて曰く、「因りて之を定むるに如かず。衛に君有り。之を伐つも、未だ以って志を得べからずして、諸侯を勤れしめん。史佚言へる有りて曰く、『重きに因りて之を撫す』と。仲虺言へる有りて曰く、『亡ぶる者は之を侮り、亂るる者は之を取る』と。亡を推し存を固むるは、國の道なり。君其れ衛を定めて以って時を待たんか」と。冬、戚に會す。衛を定めんことを謀るなり。范宣子羽毛を齊に假りて歸さず。齊人始めて貳す。楚の子囊吳を伐つより還りて卒す。將に死せんとして、遺言して子庚に必ず郢に城けと謂ふ。君子謂ふ、「子囊は忠なり。君薨じて其の名を增すを忘れず、將に死せんとして社稷を衛るを忘れず。忠と謂はざるべけんや。忠は民の望なり。詩に曰く、『行きて周に歸す、萬民の望む所』と。忠なり」と。
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