春秋左氏伝 / 襄公十一年 鄭、行人を楚に遣はす
九月。諸侯悉師以復伐鄭。鄭人使良霄。大宰石蓖。如楚。告將服于晉。曰。孤以社稷之故。不能懷君。君若能以玉帛綏晉。不然。則武震以攝威之。孤之願也。楚人執之。書曰行人。言使人也。諸侯之師觀兵于鄭東門。鄭人使王子伯駢行成。甲戌。晉趙武入盟鄭伯。冬。十月。丁亥。鄭子展出盟晉侯。
新字:九月。諸侯悉師以復伐鄭。鄭人使良霄。大宰石蓖。如楚。告将服于晋。曰。孤以社稷之故。不能懐君。君若能以玉帛綏晋。不然。則武震以摂威之。孤之願也。楚人執之。書曰行人。言使人也。諸侯之師観兵于鄭東門。鄭人使王子伯駢行成。甲戌。晋趙武入盟鄭伯。冬。十月。丁亥。鄭子展出盟晋侯。
書き下し
九月、諸侯師を悉して以て復た鄭を伐つ。鄭人、良霄・大宰石蓖(せきひ)をして楚に如かしめ、將に晉に服せんとするを告げしめて曰く、「孤、社稷の故を以て、君を懷ふ能はず。君若し能く玉帛を以て晉を綏(やす)んぜよ。然らずんば、則ち武震して以て之を攝威せよ。孤の願ひなり」と。楚人之を執ふ。書して「行人」と曰ふは、使人なるを言ふなり。諸侯の師、兵を鄭の東門に觀す。鄭人、王子伯駢をして成を行はしむ。甲戌、晉の趙武入りて鄭伯と盟ふ。冬十月丁亥、鄭の子展出でて晉侯と盟ふ。
現代語訳
九月、諸侯は全軍を挙げて再び鄭を討った。鄭の人々は良霄(りょうしょう、伯有)と大宰の石蓖(せきひ)を楚に遣わし、晋に服従するつもりであることを告げさせて言った。「私は国家のために、君(楚王)を慕い続けることができません。君がもし玉や絹の贈り物で晋をなだめてくださるか、そうでなければ武威を振るって晋を威圧してくださるなら、それが私の願いです」。楚の人々は二人を捕らえた。『春秋』がこれを「行人」と記しているのは、彼らが使者として遣わされた人であり、使者を捕らえるのは不当だということを言っているのである。諸侯の軍は鄭の東門で兵力を誇示した。鄭の人々は王子伯駢を遣わして講和を申し入れた。甲戌の日、晋の趙武が鄭に入って鄭伯と盟約を結んだ。冬十月丁亥の日、鄭の子展が城を出て晋侯と盟約を結んだ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』襄公十三年 行人何の罪かある鄭の良霄・大宰石蓖、猶ほ楚に在り。石蓖、子囊に言ひて曰く、「先王は征を卜すること五年、而して歲ごとに其の祥を習(かさ)ぬ。祥習なれば則ち行ひ、習ならざれば則ち增す。德を脩めて卜を改む。今、楚實に競はず。行人何の罪かあらん。鄭の一卿を止めて、以て其の偪を除き、睦みて楚を疾ましめ、以て晉に固からしむ。焉んぞ之を用ゐん。歸らしめて其の使を廢せば、其の君を怨み以て其の大夫を疾みて、相牽引せん。猶ほ愈らずや」と。楚人之を歸す。
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『春秋左氏伝』襄公九年 戯の盟、載書を争ふ十一月己亥、戲に同盟す。鄭服すればなり。將に盟はんとす。鄭の六卿、公子騑・公子發・公子嘉・公孫輒・公孫蠆・公孫舍之、及び其の大夫・門子、皆鄭伯に從ふ。晉の士莊子、載書を為りて曰く、「今日既に盟ひし後より、鄭國にして唯だ晉の命を是れ聽かず、或いは異志有る者は、此の盟の如き有らん」と。公子騑趨り進みて曰く、「天、鄭國に禍し、二大國の閒に介居せしむ。大國、德音を加へずして、亂して以て之を要す。其の鬼神をして其の禋祀を歆(う)くるを獲ざらしめ、其の民人をして其の土利を享くるを獲ざらしむ。夫婦辛苦墊隘して、底(いた)り告ぐる所無し。今日既に盟ひし後より、鄭國にして唯だ禮と彊とありて以て民を庇ふべき者に是れ從はず、敢へて異志有る者は、亦た之の如くならん」と。荀偃曰く、「載書を改めよ」と。公孫舍之曰く、「大神に昭らかにして言を要せり。若し改むべくんば、大國も亦た叛くべきなり」と。知武子、獻子に謂ひて曰く、「我實に不德にして、人に要するに盟を以てす、豈に禮ならんや。禮に非ずんば何を以て盟を主らん。姑く盟ひて退き、德を脩め師を息めて來らば、終に必ず鄭を獲ん。何ぞ必ずしも今日ならん。我の不德なる、民將に我を棄てんとす、豈に唯だ鄭のみならんや。若し能く休和せば、遠人將に至らんとす。何ぞ鄭を恃まん」と。乃ち盟ひて還る。晉人鄭に志を得ず、諸侯を以て復た之を伐つ。
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『春秋左氏伝』襄公十一年 三軍を作る十一年春、季武子將に三軍を作らんとし、叔孫穆子に告げて曰く、「請ふ三軍を為り、各其の軍を征せん」と。穆子曰く、「政將に子に及ばんとす。子必ず能はじ」と。武子固く之を請ふ。穆子曰く、「然らば則ち諸を盟はん」と。乃ち諸を僖閎に盟ひ、諸を五父の衢に詛(ちか)ふ。正月、三軍を作り、公室を三分して、各其の一を有す。三子各其の乘を毀つ。季氏は其の乘の人をして、其の役邑を以て入る者は征無く、入らざる者は征を倍せしむ。孟氏は半ばをして臣と為さしめ、若しくは子、若しくは弟。叔孫氏は盡く臣と為さしむ。然らずんば舍かず。鄭人、晉楚の故を患ふ。諸大夫曰く、「晉に從はずんば、國幾ど亡びん。楚は晉より弱し。晉、吾を疾(と)くせざるなり。晉疾くせば、楚將に之を辟けんとす。何を為してか晉の師をして死を我に致さしめ、楚敢へて敵せず、而る後に固く與すべけん」と。子展曰く、「宋と惡を為さば、諸侯必ず至らん。吾之に從ひて盟ふ。楚の師至らば、吾又之に從ふ。則ち晉の怒り甚だしからん。晉能く驟(しばしば)來り、楚將に能はざらんとす。吾乃ち固く晉に與せん」と。大夫之を說ぶ。疆場の司をして宋に惡しからしむ。宋の向戌、鄭を侵し、大いに獲たり。子展曰く、「師して宋を伐つべし。若し我宋を伐たば、諸侯の我を伐つこと必ず疾からん。吾乃ち命を聽き、且つ楚に告げん。楚の師至らば、吾乃ち之と盟ひ、而して重く晉の師に賂はば、乃ち免れん」と。夏、鄭の子展、宋を侵す。
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『春秋左氏伝』襄公十一年 亳の盟の載書四月、諸侯鄭を伐つ。己亥、齊の太子光・宋の向戌、先づ鄭に至り、東門に門す。其の莫(くれ)、晉の荀罃、西郊に至り、東して舊許を侵す。衛の孫林父、其の北鄙を侵す。六月、諸侯、北林に會し、向に師し、右に還りて瑣に次り、鄭を圍み、兵を南門に觀(しめ)し、西して濟隧を濟る。鄭人懼れ、乃ち成を行ふ。秋七月、亳に同盟す。范宣子曰く、「慎まずんば、必ず諸侯を失はん。諸侯、道に敝れて成無し。能く貳無からんや」と。乃ち盟ふ。載書に曰く、「凡そ我が同盟、年を薀(つ)むこと毋かれ、利を壅ぐこと毋かれ、姦を保つこと毋かれ、慝を留むること毋かれ。災患を救ひ、禍亂を恤み、好惡を同じくし、王室を獎(たす)けよ。或いは茲の命を間(をか)さば、司慎・司盟、名山・名川、群神・群祀、先王・先公、七姓十二國の祖、明神之を殛(ころ)し、其の民を失ひ、命を隊し氏を亡ぼし、其の國家を踣(たふ)さしめん」と。楚の子囊、旅を秦に乞ふ。秦の右大夫詹、師を帥ゐて楚子に從ひ、將に以て鄭を伐たんとす。鄭伯之を逆ふ。丙子、宋を伐つ。
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『春秋左氏伝』襄公十年 師競ふこと已甚し六月、楚の子囊・鄭の子耳、宋を伐ち、訾毋(しぶ)に師す。庚午、宋を圍み、桐門に門す。晉の荀罃、秦を伐つ。其の侵に報ゆるなり。衛侯、宋を救ひ、襄牛に師す。鄭の子展曰く、「必ず衛を伐て。然らずんば、是れ楚に與せざるなり。罪を晉に得、又罪を楚に得ば、國將に之を若何せん」と。子駟曰く、「國病めり」と。子展曰く、「罪を二大國に得ば必ず亡びん。病むは猶ほ亡ぶるに愈らずや」と。諸大夫皆以て然りと為す。故に鄭の皇耳、師を帥ゐて衛を侵す。楚の令なり。孫文子、之を追ふを卜し、兆を定姜に獻ず。姜氏、繇(ちう)を問ふ。曰く、「兆は山陵の如し。夫有りて出征し、而して其の雄を喪ふ」と。姜氏曰く、「征する者雄を喪ふは、寇を禦ぐの利なり。大夫之を圖れ」と。衛人之を追ひ、孫蒯、鄭の皇耳を犬丘に獲たり。秋七月、楚の子囊・鄭の子耳、我が西鄙を伐ち、還りて蕭を圍む。八月丙寅、之に克つ。九月、子耳、宋の北鄙を侵す。孟獻子曰く、「鄭其れ災有らんか。師の競ふこと已甚し。周すら猶ほ競ふに堪へず、況んや鄭をや。災有らば、其れ執政の三士か」と。莒人、諸侯の事有るを間(うかが)ひ、故に我が東鄙を伐つ。
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『春秋左氏伝』襄公九年 君子は心を労す冬十月、諸侯鄭を伐つ。庚午、季武子・齊の崔杼・宋の皇鄖、荀罃・士匄に從ひて、鄟門(せんもん)に門す。衛の北宮括・曹人・邾人、荀偃・韓起に從ひて、師之梁に門す。滕人・薛人、欒黶・士魴に從ひて、北門に門す。杞人・郳人、趙武・魏絳に從ひて、行栗を斬る。甲戌、氾に師す。諸侯に令して曰く、「器備を脩め、餱糧を盛り、老幼を歸し、疾を虎牢に居き、眚(あやまち)を肆(ゆる)して鄭を圍め」と。鄭人恐れ、乃ち成を行ふ。中行獻子曰く、「遂に之を圍みて、以て楚人の救を待ち、而して之と戰はん。然らずんば成無し」と。知武子曰く、「之に盟を許して師を還し、以て楚人を敝れしめん。吾、四軍を三分し、諸侯の銳と與に、以て來る者を逆へば、我に於ては未だ病まず、楚は能はざらん。猶ほ戰ふに愈れり。骨を暴して以て逞しくするは、以て爭ふべからず。大勞未だ艾(をさ)まらず。君子は心を勞し、小人は力を勞す、先王の制なり」と。諸侯皆戰ふを欲せず、乃ち鄭の成を許す。
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