春秋左氏伝 / 襄公十一年 亳の盟の載書
四月。諸侯伐鄭。己亥。齊太子光。宋向戌。先至于鄭。門于東門。其莫。晉荀罃至于西郊。東侵舊許。衛孫林父侵其北鄙。六月。諸侯會于北林。師于向。右還次于瑣。圍鄭。觀兵于南門。西濟于濟隧。鄭人懼。乃行成。秋。七月。同盟于亳。范宣子曰。不慎。必失諸侯。諸侯道敝而無成。能無貳乎。乃盟。載書曰。凡我同盟。毋薀年。毋壅利。毋保姦。毋留慝。救災患。恤禍亂。同好惡。獎王室。或間茲命。司慎司盟。名山名川。群神群祀。先王先公。七姓十二國之祖。明神殛之。俾失其民。隊命亡氏。踣其國家。楚子囊乞旅于秦。秦右大夫詹帥師從楚子。將以伐鄭。鄭伯逆之。丙子。伐宋。
新字:四月。諸侯伐鄭。己亥。斉太子光。宋向戌。先至于鄭。門于東門。其莫。晋荀罃至于西郊。東侵旧許。衛孫林父侵其北鄙。六月。諸侯会于北林。師于向。右還次于瑣。囲鄭。観兵于南門。西済于済隧。鄭人懼。乃行成。秋。七月。同盟于亳。范宣子曰。不慎。必失諸侯。諸侯道敝而無成。能無貳乎。乃盟。載書曰。凡我同盟。毋薀年。毋壅利。毋保姦。毋留慝。救災患。恤禍乱。同好悪。獎王室。或間茲命。司慎司盟。名山名川。群神群祀。先王先公。七姓十二国之祖。明神殛之。俾失其民。隊命亡氏。踣其国家。楚子嚢乞旅于秦。秦右大夫詹帥師従楚子。将以伐鄭。鄭伯逆之。丙子。伐宋。
書き下し
四月、諸侯鄭を伐つ。己亥、齊の太子光・宋の向戌、先づ鄭に至り、東門に門す。其の莫(くれ)、晉の荀罃、西郊に至り、東して舊許を侵す。衛の孫林父、其の北鄙を侵す。六月、諸侯、北林に會し、向に師し、右に還りて瑣に次り、鄭を圍み、兵を南門に觀(しめ)し、西して濟隧を濟る。鄭人懼れ、乃ち成を行ふ。秋七月、亳に同盟す。范宣子曰く、「慎まずんば、必ず諸侯を失はん。諸侯、道に敝れて成無し。能く貳無からんや」と。乃ち盟ふ。載書に曰く、「凡そ我が同盟、年を薀(つ)むこと毋かれ、利を壅ぐこと毋かれ、姦を保つこと毋かれ、慝を留むること毋かれ。災患を救ひ、禍亂を恤み、好惡を同じくし、王室を獎(たす)けよ。或いは茲の命を間(をか)さば、司慎・司盟、名山・名川、群神・群祀、先王・先公、七姓十二國の祖、明神之を殛(ころ)し、其の民を失ひ、命を隊し氏を亡ぼし、其の國家を踣(たふ)さしめん」と。楚の子囊、旅を秦に乞ふ。秦の右大夫詹、師を帥ゐて楚子に從ひ、將に以て鄭を伐たんとす。鄭伯之を逆ふ。丙子、宋を伐つ。
現代語訳
四月、諸侯が鄭を討った。己亥の日、斉の太子光と宋の向戌が先に鄭に着き、東門を攻めた。その日の夕方、晋の荀罃が鄭の西の郊外に着き、東に向かって旧許の地に侵攻した。衛の孫林父は鄭の北の辺境に侵攻した。六月、諸侯は北林で会合し、向に陣を敷き、右へ回って瑣に駐屯し、鄭を包囲して、南門で兵力を誇示し、西に向かって済隧を渡った。鄭の人々は恐れて、講和を申し入れた。秋七月、亳で同盟を結んだ。范宣子は言った。「慎まなければ、必ず諸侯の心を失うだろう。諸侯は道中で疲れ果てたのに成果がない。それで二心を抱かずにいられようか」。そこで盟約を結んだ。盟約の文書にはこうあった。「およそ我ら同盟の国は、穀物を買い占めて溜め込んではならない。利益の流通を塞いではならない。悪人をかくまってはならない。悪事を働いた者を留め置いてはならない。災害や患難があれば救い合い、禍や乱があれば憂え助け合い、好むところと憎むところを同じくし、王室を助けよ。もしこの命に背く者があれば、司慎・司盟の神々、名だたる山や川の神、あらゆる神々と祀られる霊、先王と先公、七姓十二か国の祖先、明らかなる神々がこれを誅し、その民を失わせ、君命を墜とし一族を滅ぼし、その国家を覆させるであろう」。楚の子囊は秦に援軍を求めた。秦の右大夫詹が軍を率いて楚王に従い、鄭を討とうとした。鄭伯はこれを迎えて楚に従い、丙子の日、宋を討った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『春秋左氏伝』襄公九年 戯の盟、載書を争ふ十一月己亥、戲に同盟す。鄭服すればなり。將に盟はんとす。鄭の六卿、公子騑・公子發・公子嘉・公孫輒・公孫蠆・公孫舍之、及び其の大夫・門子、皆鄭伯に從ふ。晉の士莊子、載書を為りて曰く、「今日既に盟ひし後より、鄭國にして唯だ晉の命を是れ聽かず、或いは異志有る者は、此の盟の如き有らん」と。公子騑趨り進みて曰く、「天、鄭國に禍し、二大國の閒に介居せしむ。大國、德音を加へずして、亂して以て之を要す。其の鬼神をして其の禋祀を歆(う)くるを獲ざらしめ、其の民人をして其の土利を享くるを獲ざらしむ。夫婦辛苦墊隘して、底(いた)り告ぐる所無し。今日既に盟ひし後より、鄭國にして唯だ禮と彊とありて以て民を庇ふべき者に是れ從はず、敢へて異志有る者は、亦た之の如くならん」と。荀偃曰く、「載書を改めよ」と。公孫舍之曰く、「大神に昭らかにして言を要せり。若し改むべくんば、大國も亦た叛くべきなり」と。知武子、獻子に謂ひて曰く、「我實に不德にして、人に要するに盟を以てす、豈に禮ならんや。禮に非ずんば何を以て盟を主らん。姑く盟ひて退き、德を脩め師を息めて來らば、終に必ず鄭を獲ん。何ぞ必ずしも今日ならん。我の不德なる、民將に我を棄てんとす、豈に唯だ鄭のみならんや。若し能く休和せば、遠人將に至らんとす。何ぞ鄭を恃まん」と。乃ち盟ひて還る。晉人鄭に志を得ず、諸侯を以て復た之を伐つ。
-
『春秋左氏伝』襄公十一年 鄭、行人を楚に遣はす九月、諸侯師を悉して以て復た鄭を伐つ。鄭人、良霄・大宰石蓖(せきひ)をして楚に如かしめ、將に晉に服せんとするを告げしめて曰く、「孤、社稷の故を以て、君を懷ふ能はず。君若し能く玉帛を以て晉を綏(やす)んぜよ。然らずんば、則ち武震して以て之を攝威せよ。孤の願ひなり」と。楚人之を執ふ。書して「行人」と曰ふは、使人なるを言ふなり。諸侯の師、兵を鄭の東門に觀す。鄭人、王子伯駢をして成を行はしむ。甲戌、晉の趙武入りて鄭伯と盟ふ。冬十月丁亥、鄭の子展出でて晉侯と盟ふ。
-
『春秋左氏伝』襄公十一年 三軍を作る十一年春、季武子將に三軍を作らんとし、叔孫穆子に告げて曰く、「請ふ三軍を為り、各其の軍を征せん」と。穆子曰く、「政將に子に及ばんとす。子必ず能はじ」と。武子固く之を請ふ。穆子曰く、「然らば則ち諸を盟はん」と。乃ち諸を僖閎に盟ひ、諸を五父の衢に詛(ちか)ふ。正月、三軍を作り、公室を三分して、各其の一を有す。三子各其の乘を毀つ。季氏は其の乘の人をして、其の役邑を以て入る者は征無く、入らざる者は征を倍せしむ。孟氏は半ばをして臣と為さしめ、若しくは子、若しくは弟。叔孫氏は盡く臣と為さしむ。然らずんば舍かず。鄭人、晉楚の故を患ふ。諸大夫曰く、「晉に從はずんば、國幾ど亡びん。楚は晉より弱し。晉、吾を疾(と)くせざるなり。晉疾くせば、楚將に之を辟けんとす。何を為してか晉の師をして死を我に致さしめ、楚敢へて敵せず、而る後に固く與すべけん」と。子展曰く、「宋と惡を為さば、諸侯必ず至らん。吾之に從ひて盟ふ。楚の師至らば、吾又之に從ふ。則ち晉の怒り甚だしからん。晉能く驟(しばしば)來り、楚將に能はざらんとす。吾乃ち固く晉に與せん」と。大夫之を說ぶ。疆場の司をして宋に惡しからしむ。宋の向戌、鄭を侵し、大いに獲たり。子展曰く、「師して宋を伐つべし。若し我宋を伐たば、諸侯の我を伐つこと必ず疾からん。吾乃ち命を聽き、且つ楚に告げん。楚の師至らば、吾乃ち之と盟ひ、而して重く晉の師に賂はば、乃ち免れん」と。夏、鄭の子展、宋を侵す。
-
『春秋左氏伝』襄公二十七年 楚人、甲を衷す秋、七月、戊寅、左師至る。是の夜や、趙孟及び子皙盟ひて、以て言を齊ふ。庚辰、子木陳より至る。陳の孔奐・蔡の公孫歸生至る。曹・許の大夫皆至る。藩を以て軍と為す。晉・楚各〻其の偏に處る。伯夙趙孟に謂ひて曰く、「楚の氛甚だ惡し。難を懼る」と。趙孟曰く、「吾左に還りて宋に入らば、我を若何せん」と。辛巳、將に宋の西門の外に盟はんとす。楚人甲を衷る。伯州犁曰く、「諸侯の師を合して、以て不信を為すは、乃ち不可なること無からんや。夫れ諸侯信を楚に望む。是を以て來服す。若し信ならずんば、是れ其の諸侯を服する所以を棄つるなり」と。固く甲を釋かんことを請ふ。子木曰く、「晉・楚信無きこと久し。利を事とするのみ。苟くも志を得ば、焉んぞ信有るを用ゐん」と。大宰退きて人に告げて曰く、「令尹將に死せんとす。三年に及ばじ。志を逞しくせんことを求めて信を棄つ。志將に逞しからんや。志以て言を發し、言以て信を出だし、信以て志を立つ。參つ以て之を定む。信亡びて何を以てか三に及ばん」と。趙孟楚の甲を衷するを患へ、以て叔向に告ぐ。
-
『春秋左氏伝』桓公十二年 屢盟えば乱長ず十二年夏、曲池に盟ふ。杞・莒を平らぐなり。公宋・鄭を平らげんと欲す。秋、公宋公と句瀆の丘に盟ふ。宋の成未だ知るべからず。故に又虛に會す。冬、又龜に會す。宋公平を辭す。故に鄭伯と武父に盟ふ。遂に師を帥ゐて宋を伐ち、焉に戰ふ。宋信無ければなり。君子曰く、「苟も信繼がずんば、盟ふも益無きなり。《詩》に云ふ、『君子屢しば盟ふ、亂是を用て長ず』と。信無ければなり」と。楚絞を伐ち、其の南門に軍す。莫敖屈瑕曰く、「絞は小にして輕し。輕ければ則ち謀寡し。請ふ采樵者を扞ぐこと無くして以て之を誘はん」と。之に從ふ。絞人三十人を獲たり。明日、絞人爭ひ出で、楚の役徒を山中に驅る。楚人其の北門に坐し、而して諸を山下に覆し、大いに之を敗り、城下の盟を為して還る。絞を伐つの役、楚の師分かれて彭を涉る。羅人之を伐たんと欲し、伯嘉をして之を諜らしむ。三たび巡りて之を數ふ。
-
『春秋左氏伝』襄公十年 師競ふこと已甚し六月、楚の子囊・鄭の子耳、宋を伐ち、訾毋(しぶ)に師す。庚午、宋を圍み、桐門に門す。晉の荀罃、秦を伐つ。其の侵に報ゆるなり。衛侯、宋を救ひ、襄牛に師す。鄭の子展曰く、「必ず衛を伐て。然らずんば、是れ楚に與せざるなり。罪を晉に得、又罪を楚に得ば、國將に之を若何せん」と。子駟曰く、「國病めり」と。子展曰く、「罪を二大國に得ば必ず亡びん。病むは猶ほ亡ぶるに愈らずや」と。諸大夫皆以て然りと為す。故に鄭の皇耳、師を帥ゐて衛を侵す。楚の令なり。孫文子、之を追ふを卜し、兆を定姜に獻ず。姜氏、繇(ちう)を問ふ。曰く、「兆は山陵の如し。夫有りて出征し、而して其の雄を喪ふ」と。姜氏曰く、「征する者雄を喪ふは、寇を禦ぐの利なり。大夫之を圖れ」と。衛人之を追ひ、孫蒯、鄭の皇耳を犬丘に獲たり。秋七月、楚の子囊・鄭の子耳、我が西鄙を伐ち、還りて蕭を圍む。八月丙寅、之に克つ。九月、子耳、宋の北鄙を侵す。孟獻子曰く、「鄭其れ災有らんか。師の競ふこと已甚し。周すら猶ほ競ふに堪へず、況んや鄭をや。災有らば、其れ執政の三士か」と。莒人、諸侯の事有るを間(うかが)ひ、故に我が東鄙を伐つ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る