春秋左氏伝 / 襄公四年 和戎の五利
而立少康。少康滅澆于過。后杼滅豷于戈。有窮由是遂亡。失人故也。昔周辛甲之為大史也。命百官。官箴王闕。於虞人之箴曰。芒芒禹跡。畫為九州。經啟九道。民有寢廟。獸有茂草。各有攸處。德用不擾。在帝夷羿。冒于原獸。忘其國恤。而思其麀牡。武不可重。用不恢于夏家。獸臣司原。取告僕夫。虞箴如是。可不懲乎。於是晉侯好田。故魏絳及之。公曰。然則莫如和戎乎。對曰。和戎有五利焉。戎狄荐居。貴貨易土。土可賈焉。一也。邊鄙不聳。民狎其野。穡人成功。二也。戎狄事晉。四鄰振動。諸侯威懷。三也。以德綏戎。師徒不動。甲兵不頓。四也。鑒于后羿。而用德度。遠至邇安。五也。君其圖之。公說。使魏絳盟諸戎。脩民事。田以時。冬。十月。邾人。莒人。伐鄫。臧紇救鄫。侵邾。敗于狐駘。國人逆喪者皆髽。魯於是乎始髽。國人誦之曰。臧之狐裘。敗我於狐駘。我君小子。朱儒是使。朱儒朱儒。使我敗於邾。
新字:而立少康。少康滅澆于過。后杼滅豷于戈。有窮由是遂亡。失人故也。昔周辛甲之為大史也。命百官。官箴王闕。於虞人之箴曰。芒芒禹跡。画為九州。経啓九道。民有寝廟。獣有茂草。各有攸処。徳用不擾。在帝夷羿。冒于原獣。忘其国恤。而思其麀牡。武不可重。用不恢于夏家。獣臣司原。取告僕夫。虞箴如是。可不懲乎。於是晋侯好田。故魏絳及之。公曰。然則莫如和戎乎。対曰。和戎有五利焉。戎狄荐居。貴貨易土。土可賈焉。一也。辺鄙不聳。民狎其野。穡人成功。二也。戎狄事晋。四鄰振動。諸侯威懐。三也。以徳綏戎。師徒不動。甲兵不頓。四也。鑒于后羿。而用徳度。遠至邇安。五也。君其図之。公説。使魏絳盟諸戎。脩民事。田以時。冬。十月。邾人。莒人。伐鄫。臧紇救鄫。侵邾。敗于狐駘。国人逆喪者皆髽。魯於是乎始髽。国人誦之曰。臧之狐裘。敗我於狐駘。我君小子。朱儒是使。朱儒朱儒。使我敗於邾。
書き下し
少康を立つ。少康、澆を過に滅ぼし、后杼、豷を戈に滅ぼす。有窮、是に由りて遂に亡ぶ。人を失ふが故なり。昔、周の辛甲の大史たるや、百官に命じ、官ごとに王の闕を箴(いまし)めしむ。虞人の箴に於て曰く、『芒芒たる禹の跡、畫して九州と爲し、九道を經啟す。民に寢廟有り、獸に茂草有り。各〻攸(ところ)を處(しめ)る有り、德用(もつ)て擾れず。帝夷羿に在りては、原獸に冒(むさぼ)り、其の國の恤(うれ)ひを忘れて、其の麀牡(ゆうぼ)を思ふ。武は重ぬべからず、用て夏家を恢(ひろ)めず。獸臣原を司る、取りて僕夫に告ぐ』と。虞箴是くの如し。懲りざるべけんや」と。是に於て晉侯田を好む。故に魏絳之に及ぶ。公曰く、「然らば則ち戎に和するに如くは莫きか」と。對へて曰く、「戎に和するに五利有り。戎狄は荐居(せんきょ)し、貨を貴びて土を易(かろ)んず。土賈(か)ふべし。一なり。邊鄙聳(おそ)れず、民其の野に狎れ、穡人(しょくじん)功を成す。二なり。戎狄晉に事へ、四鄰振動し、諸侯威懷す。三なり。德を以て戎を綏んじ、師徒動かず、甲兵頓(つか)れず。四なり。后羿に鑒みて、德度を用ゐ、遠きは至り邇(ちか)きは安んず。五なり。君其れ之を圖れ」と。公說(よろこ)び、魏絳をして諸戎と盟はしむ。民事を脩め、田するに時を以てす。冬、十月、邾人・莒人、鄫を伐つ。臧紇、鄫を救ひ、邾を侵し、狐駘(こたい)に敗る。國人の喪を逆ふる者、皆髽(ざ)す。魯、是に於てか始めて髽す。國人之を誦して曰く、「臧の狐裘、我を狐駘に敗る。我が君は小子、朱儒是れ使ふ。朱儒よ朱儒よ、我をして邾に敗らしむ」と。
現代語訳
少康(しょうこう、夏の王族)を立てました。少康は過の地で澆を滅ぼし、后杼(こうちょ、少康の子)は戈の地で豷を滅ぼしました。有窮はこうしてついに滅びました。人を失ったからです。昔、周の辛甲(しんこう)が太史であったとき、百官に命じて、それぞれの官ごとに王の欠点を戒める言葉を作らせました。そのうち山林を司る虞人の戒めにはこうあります。『広々とした禹の足跡の地を、区切って九州とし、九つの道を切り開いた。民には住まいと宗廟があり、獣には茂った草地がある。それぞれに居場所があって、徳によって乱されることがなかった。ところが帝位にあった夷羿は、野の獣を貪り求め、国の憂いを忘れて、ただ雌雄の獣のことばかり思った。武事は重ねてはならないものだが、羿はそれで夏の家を大きくすることはできなかった。獣を司る臣たる私は野を管轄する者として、謹んで御者の方々に申し上げる』。虞人の戒めはこのようなものです。これを戒めとしないでよいでしょうか」。このころ晋侯は狩りを好んでいた。だから魏絳はこの話に言い及んだのである。悼公は言った。「それならば、戎と和睦するのが一番よいというのか」。魏絳は答えた。「戎と和睦することには五つの利があります。戎狄は水草を追って移り住み、財貨を重んじて土地を軽んじます。ですから彼らの土地は買い取ることができます。これが第一です。辺境の地が脅かされず、民は安心して野に出て働き、農夫は収穫を成し遂げられます。これが第二です。戎狄が晋に仕えれば、四方の隣国は震え動き、諸侯は晋の威に恐れ、徳になつくでしょう。これが第三です。徳によって戎を安んずれば、兵を動かさずに済み、鎧も武器も損なわずに済みます。これが第四です。后羿を戒めとして、徳と節度を用いれば、遠くの者はやって来て、近くの者は安んじます。これが第五です。君はどうかお考えください」。悼公は喜び、魏絳に諸戎と盟約を結ばせた。そして民の暮らしに関わる政務を整え、狩りは季節を守って行った。冬十月、邾と莒の人々が鄫を討った。臧紇(ぞうこつ、臧武仲)は鄫を救おうとして邾を侵したが、狐駘(こたい)で敗れた。国都の人々で戦死者の遺体を迎える者は、みな麻で髪を束ねただけの喪の髪型をした。魯ではこのときから、この髪型が始まったのである。国の人々はこう歌って謗った。「臧どのの狐の皮衣、狐駘で我らを負かした。我が君はまだ幼く、使うは小男。小男よ小男よ、我らを邾に負けさせた」。
解説
この章句が説くこと
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史記 屈原賈生列伝屈平既に絀けらる。其の後秦斉を伐たんと欲す。斉と楚と従親す。恵王之を患ふ。乃ち張儀をして詳りて秦を去り、厚幣もて質を委ねて楚に事へしめて曰く、「秦は甚だ斉を憎む。斉と楚と従親す。楚誠に能く斉と絶たば、秦は商・於の地六百里を献ぜんことを願ふ」と。楚の懐王貪りて張儀を信じ、遂に斉と絶ち、使をして秦に如きて地を受けしむ。張儀之を詐りて曰く、「儀は王と六里を約せり。六百里を聞かず」と。楚の使怒りて去り、帰りて懐王に告ぐ。懐王怒り、大いに師を興して秦を伐つ。秦兵を発して之を撃ち、大いに楚の師を丹・淅に破り、首を斬ること八万、楚将屈丐を虜にし、遂に楚の漢中の地を取る。懐王乃ち悉く国中の兵を発して以て深く入りて秦を撃ち、藍田に戦ふ。魏之を聞き、楚を襲ひて鄧に至る。楚兵懼れ、秦より帰る。而して斉竟に怒りて楚を救はず。楚大いに困しむ。明年、秦漢中の地を割きて楚に与へ以て和す。楚王曰く、「地を得るを願はず。張儀を得て心を甘んぜんことを願ふ」と。張儀聞き、乃ち曰く、「一儀を以て漢中の地に当つ。臣請ふ往きて楚に如かん」と。楚に如き、又因りて厚幣もて事を用ふる者の臣靳尚に用ひ、而して詭弁を懐王の寵姫鄭袖に設く。懐王竟に鄭袖に聴き、復た張儀を釈し去らしむ。是の時屈平既に疏んぜられ、復た位に在らず。斉に使ひし、顧反し、懐王を諫めて曰く、「何ぞ張儀を殺さざる」と。懐王悔い、張儀を追へども及ばず。其の後諸侯共に楚を撃ち、大いに之を破り、其の将唐眛を殺す。時に秦の昭王楚と婚し、懐王と会せんと欲す。懐王行かんと欲す。屈平曰く、「秦は虎狼の国なり。信ずべからず。行くこと毋きに如かず」と。懐王の稚子子蘭、王に行くを勧む。「奈何ぞ秦の歓を絶たん」と。懐王卒に行く。武関に入る。秦伏兵もて其の後を絶ち、因りて懐王を留め、以て地を割かんことを求む。懐王怒り、聴かず。亡げて趙に走る。趙内れず。復た秦に之き、竟に秦に死して帰葬せらる。
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