春秋左氏伝 / 襄公四年 有窮の后羿
勞師於戎。而楚伐陳。必弗能救。是棄陳也。諸華必叛。戎禽獸也。獲戎失華。無乃不可乎。夏訓有之曰。有窮后羿。公曰。后羿何如。對曰。昔有夏之方衰也。后羿自鉏遷于窮石。因夏民以代夏政。恃其射也。不脩民事。而淫于原獸。棄武羅。伯困。熊髡。尨圉。而用寒浞。寒浞。伯明氏之讒子弟也。伯明后寒棄之。夷羿收之。信而使之。以為己相。浞行媚于內。而施賂于外。愚弄其民。而虞羿于田。樹之詐慝。以取其國家。外內咸服。羿猶不悛。將歸自田。家眾殺而亨之。以食其子。其子不忍食諸。死于窮門。靡奔有鬲氏。浞因羿室。生澆及豷。恃其讒慝詐偽而不德于民。使澆用師。滅斟灌及斟尋氏。處澆于過。處豷于戈。靡自有鬲氏。收二國之燼以滅浞。
新字:労師於戎。而楚伐陳。必弗能救。是棄陳也。諸華必叛。戎禽獣也。獲戎失華。無乃不可乎。夏訓有之曰。有窮后羿。公曰。后羿何如。対曰。昔有夏之方衰也。后羿自鉏遷于窮石。因夏民以代夏政。恃其射也。不脩民事。而淫于原獣。棄武羅。伯困。熊髡。尨圉。而用寒浞。寒浞。伯明氏之讒子弟也。伯明后寒棄之。夷羿収之。信而使之。以為己相。浞行媚于内。而施賂于外。愚弄其民。而虞羿于田。樹之詐慝。以取其国家。外内咸服。羿猶不悛。将帰自田。家衆殺而亨之。以食其子。其子不忍食諸。死于窮門。靡奔有鬲氏。浞因羿室。生澆及豷。恃其讒慝詐偽而不徳于民。使澆用師。滅斟灌及斟尋氏。処澆于過。処豷于戈。靡自有鬲氏。収二国之燼以滅浞。
書き下し
師を戎に勞して、楚、陳を伐たば、必ず救ふこと能はず。是れ陳を棄つるなり。諸華必ず叛かん。戎は禽獸なり。戎を獲て華を失ふは、乃ち不可なること無からんや。夏訓に之有り、曰く、『有窮の后羿』と」と。公曰く、「后羿は何如」と。對へて曰く、「昔、有夏の方に衰ふるや、后羿、鉏(しょ)より窮石に遷り、夏民に因りて以て夏の政に代はる。其の射を恃みて、民事を脩めずして、原獸に淫す。武羅・伯困・熊髡・尨圉を棄てて、寒浞を用ゐる。寒浞は伯明氏の讒子弟なり。伯明后寒、之を棄つ。夷羿之を收め、信じて之を使ひ、以て己の相と爲す。浞、媚を内に行ひて、賂を外に施し、其の民を愚弄して、羿を田に虞(たの)しましめ、之に詐慝を樹てて、以て其の國家を取る。外内咸な服す。羿猶ほ悛(あらた)めず。將に田より歸らんとするに、家眾殺して之を亨(に)、以て其の子に食はしむ。其の子、諸を食ふに忍びず、窮門に死す。靡(び)、有鬲氏に奔る。浞、羿の室に因りて、澆(ぎょう)及び豷(き)を生む。其の讒慝詐偽を恃みて、民に德あらず。澆をして師を用ゐしめ、斟灌及び斟尋氏を滅ぼす。澆を過に處(お)き、豷を戈に處く。靡、有鬲氏より、二國の燼(じん)を收めて以て浞を滅ぼし、
現代語訳
戎に対して軍を疲れさせているあいだに楚が陳を討てば、我々は必ず救うことができません。それは陳を見捨てることになります。そうなれば中原の諸国は必ず背くでしょう。戎は禽獣のようなものです。戎を得て中原の国々を失うのは、よくないことではないでしょうか。夏の訓戒の書にこうあります。『有窮の后羿は』と」。悼公は言った。「后羿とはどういう人物か」。魏絳は答えた。「昔、夏王朝が衰えかけたとき、后羿(こうげい、有窮国の君)は鉏(しょ)から窮石に移り、夏の民の力を借りて夏の政権に取って代わりました。ところが后羿は自分の弓の腕前を頼みにして、民の暮らしに関わる政務を顧みず、野の獣を狩ることにふけりました。武羅・伯困・熊髡・尨圉(ぼうぎょ)といった賢臣を退け、寒浞(かんさく)を用いました。寒浞は伯明氏の一族の中の、讒言をこととする子弟でした。寒の君伯明は寒浞を追放しましたが、夷羿(后羿)はこれを拾い上げ、信用して使い、自分の宰相としました。寒浞は宮中では媚びへつらい、外では賄賂をばらまき、民を欺きもてあそび、后羿を狩りに夢中にさせておいて、偽りと悪事を植えつけ、ついにその国家を奪い取りました。国の内も外もみな寒浞に服しました。それでも后羿は改めませんでした。狩りから帰ろうとしたところを、家臣たちが殺して煮て、その肉を后羿の子に食べさせようとしました。子は父の肉を食べるに忍びず、窮国の門で死にました。夏の遺臣靡(び)は有鬲氏(ゆうかくし)のもとに逃れました。寒浞は后羿の妻妾をそのまま自分のものとし、澆(ぎょう)と豷(き)を生みました。寒浞は讒言と悪事と偽りを頼みとして、民に徳を施しませんでした。澆に軍を率いさせて、夏の同姓である斟灌氏と斟尋氏を滅ぼしました。澆を過に置き、豷を戈に置きました。靡は有鬲氏のもとから、滅ぼされた二国の生き残りを集めて寒浞を滅ぼし、
解説
この章句が説くこと
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史記 趙世家襄子、伯魯の立たざるが為に、子を立つるを肯ぜず、且つ必ず位を伯魯の子代の成君に伝へんと欲す。成君先に死す。乃ち代の成君の子浣を取りて立てて太子と為す。襄子立ちて三十三年にして卒し、浣立つ、是を献侯と為す。献侯少くして位に即き、中牟に治す。襄子の弟桓子、献侯を逐ひ、自ら代に立つ。一年にして卒す。国人曰く、桓子の立つは襄子の意に非ずと。乃ち共に其の子を殺して復た献侯を迎へ立つ。十年、中山の武公初めて立つ。十三年、平邑に城く。十五年、献侯卒し、子烈侯籍立つ。烈侯元年、魏の文侯中山を伐ち、太子撃をして之を守らしむ。六年、魏・韓・趙皆相立ちて諸侯と為る。献子を追尊して献侯と為す。烈侯音を好む。相国公仲連に謂ひて曰く、「寡人愛する有り、以て之を貴くすべきか」と。公仲曰く、「之を富ますは可なり。之を貴くするは則ち否なり」と。烈侯曰く、「然り。夫の鄭の歌者槍・石の二人、吾之に田を賜はん、人ごとに万畝」と。公仲曰く、「諾」と。与へず。居ること一月、烈侯代より来り、歌者の田を問ふ。公仲曰く、「求むれども、未だ可なる者有らず」と。頃有りて、烈侯復た問ふ。公仲終に与へず、乃ち疾と称して朝せず。番吾君代より来り、公仲に謂ひて曰く、「君実に善を好めども、未だ持する所を知らず。今公仲趙に相たること、今に於て四年、亦士を進むること有るか」と。公仲曰く、「未だし」と。番吾君曰く、「牛畜・荀欣・徐越皆可なり」と。公仲乃ち三人を進む。朝するに及び、烈侯復た問ふ、「歌者の田何如」と。公仲曰く、「方に其の善き者を択ばしむ」と。牛畜、烈侯に侍するに仁義を以てし、約するに王道を以てす。烈侯逌然たり。明日、荀欣侍し、選練して賢を挙げ、官に任じて能を使ふを以てす。明日、徐越侍し、財を節し用を倹にし、功徳を察度するを以てす。与する所充たざる無し。君説ぶ。烈侯使をして相国に謂はしめて曰く、「歌者の田は且く止めよ」と。
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『春秋左氏伝』襄公三十一年 美錦を学ばしめず子皮尹何をして邑を為めしめんと欲す。子產曰く、「少し。未だ可否を知らず」と。子皮曰く、「愿なり。吾之を愛す。吾に叛かざるなり。夫をして往きて學ばしめば、夫も亦た愈〻治を知らん」と。子產曰く、「不可なり。人の人を愛するは、之を利せんことを求むるなり。今吾子人を愛するに則ち政を以てす。猶ほ未だ刀を操ること能はずして割かしむるがごときなり。其の傷つくること實に多からん。子の人を愛する、之を傷つくるのみ。其れ誰か敢へて愛を子に求めん。子の鄭國に於けるや、棟なり。棟折れ榱崩るれば、僑將に厭されんとす。敢へて言を盡くさざらんや。子に美錦有らば、人をして製するを學ばしめず。大官大邑は、身の庇ふ所なり。而るに學者をして製せしむ。其の美錦為るや、亦た多からずや。僑聞く、學びて而る後に政に入ると。未だ政を以て學ぶ者を聞かざるなり。若し果たして此を行はば、必ず害する所有らん。譬へば田獵の如し。射御貫るれば、則ち能く禽を獲。若し未だ嘗て車に登りて射御せずんば、則ち敗績厭覆を是れ懼れん。何の暇ありてか獲るを思はん」と。子皮曰く、「善いかな。虎不敏なり。吾聞く、君子は大なる者遠き者を知るに務め、小人は小なる者近き者を知るに務むと。我は小人なり。衣服の吾が身に附在するは、我知りて之を慎む。大官大邑は、身を庇ふ所以なり。我遠ざけて之を慢る。子の言微かりせば、吾知らざりしなり。他日、我曰へり、『子は鄭國を為め、我は吾が家を為めて、以て庇はば其れ可なり』と。今にして後に足らざるを知る。今より請ふ、吾が家と雖も子に聽きて行はん」と。子產曰く、「人心の同じからざるは、其の面の如し。吾豈に敢へて子の面吾が面の如しと謂はんや。抑〻心に危ふしと謂ふ所は、亦た以て告ぐるなり」と。子皮以て忠と為す。故に政を委ぬ。子產是を以て能く鄭國を為む。
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