史記 / 趙世家
襄子爲伯魯之不立也,不肯立子,且必欲傳位與伯魯子代成君。成君先死,乃取代成君子浣立爲太子。襄子立三十三年卒,浣立,是爲獻侯。獻侯少卽位,治中牟。襄子弟桓子逐獻侯,自立於代,一年卒。國人曰桓子立非襄子意,乃共殺其子而復迎立獻侯。十年,中山武公初立。十三年,城平邑。十五年,獻侯卒,子烈侯籍立。烈侯元年,魏文侯伐中山,使太子撃守之。六年,魏、韓、趙皆相立爲諸侯,追尊獻子爲獻侯。烈侯好音,謂相國公仲連曰:「寡人有愛,可以貴之乎?」公仲曰:「富之可,貴之則否。」烈侯曰:「然。夫鄭歌者槍、石二人,吾賜之田,人萬畝。」公仲曰:「諾。」不與。居一月,烈侯從代來,問歌者田。公仲曰:「求,未有可者。」有頃,烈侯復問。公仲終不與,乃稱疾不朝。番吾君自代來,謂公仲曰:「君實好善,而未知所持。今公仲相趙,於今四年,亦有進士乎?」公仲曰:「未也。」番吾君曰:「牛畜、荀欣、徐越皆可。」公仲乃進三人。及朝,烈侯復問:「歌者田何如?」公仲曰:「方使擇其善者。」牛畜侍烈侯以仁義,約以王道,烈侯逌然。明日,荀欣侍,以選練舉賢,任官使能。明日,徐越侍,以節財儉用,察度功德。所與無不充,君説。烈侯使使謂相國曰:「歌者之田且止。」
新字:襄子為伯魯之不立也,不肯立子,且必欲伝位与伯魯子代成君。成君先死,乃取代成君子浣立為太子。襄子立三十三年卒,浣立,是為献侯。献侯少即位,治中牟。襄子弟桓子逐献侯,自立於代,一年卒。国人曰桓子立非襄子意,乃共殺其子而復迎立献侯。十年,中山武公初立。十三年,城平邑。十五年,献侯卒,子烈侯籍立。烈侯元年,魏文侯伐中山,使太子撃守之。六年,魏、韓、趙皆相立為諸侯,追尊献子為献侯。烈侯好音,謂相国公仲連曰:「寡人有愛,可以貴之乎?」公仲曰:「富之可,貴之則否。」烈侯曰:「然。夫鄭歌者槍、石二人,吾賜之田,人万畝。」公仲曰:「諾。」不与。居一月,烈侯従代来,問歌者田。公仲曰:「求,未有可者。」有頃,烈侯復問。公仲終不与,乃称疾不朝。番吾君自代来,謂公仲曰:「君実好善,而未知所持。今公仲相趙,於今四年,亦有進士乎?」公仲曰:「未也。」番吾君曰:「牛畜、荀欣、徐越皆可。」公仲乃進三人。及朝,烈侯復問:「歌者田何如?」公仲曰:「方使択其善者。」牛畜侍烈侯以仁義,約以王道,烈侯逌然。明日,荀欣侍,以選練舉賢,任官使能。明日,徐越侍,以節財倹用,察度功徳。所与無不充,君説。烈侯使使謂相国曰:「歌者之田且止。」
書き下し
襄子、伯魯の立たざるが為に、子を立つるを肯ぜず、且つ必ず位を伯魯の子代の成君に伝へんと欲す。成君先に死す。乃ち代の成君の子浣を取りて立てて太子と為す。襄子立ちて三十三年にして卒し、浣立つ、是を献侯と為す。献侯少くして位に即き、中牟に治す。襄子の弟桓子、献侯を逐ひ、自ら代に立つ。一年にして卒す。国人曰く、桓子の立つは襄子の意に非ずと。乃ち共に其の子を殺して復た献侯を迎へ立つ。十年、中山の武公初めて立つ。十三年、平邑に城く。十五年、献侯卒し、子烈侯籍立つ。烈侯元年、魏の文侯中山を伐ち、太子撃をして之を守らしむ。六年、魏・韓・趙皆相立ちて諸侯と為る。献子を追尊して献侯と為す。烈侯音を好む。相国公仲連に謂ひて曰く、「寡人愛する有り、以て之を貴くすべきか」と。公仲曰く、「之を富ますは可なり。之を貴くするは則ち否なり」と。烈侯曰く、「然り。夫の鄭の歌者槍・石の二人、吾之に田を賜はん、人ごとに万畝」と。公仲曰く、「諾」と。与へず。居ること一月、烈侯代より来り、歌者の田を問ふ。公仲曰く、「求むれども、未だ可なる者有らず」と。頃有りて、烈侯復た問ふ。公仲終に与へず、乃ち疾と称して朝せず。番吾君代より来り、公仲に謂ひて曰く、「君実に善を好めども、未だ持する所を知らず。今公仲趙に相たること、今に於て四年、亦士を進むること有るか」と。公仲曰く、「未だし」と。番吾君曰く、「牛畜・荀欣・徐越皆可なり」と。公仲乃ち三人を進む。朝するに及び、烈侯復た問ふ、「歌者の田何如」と。公仲曰く、「方に其の善き者を択ばしむ」と。牛畜、烈侯に侍するに仁義を以てし、約するに王道を以てす。烈侯逌然たり。明日、荀欣侍し、選練して賢を挙げ、官に任じて能を使ふを以てす。明日、徐越侍し、財を節し用を倹にし、功徳を察度するを以てす。与する所充たざる無し。君説ぶ。烈侯使をして相国に謂はしめて曰く、「歌者の田は且く止めよ」と。
現代語訳
襄子は、兄の伯魯が君位に立てなかったことを思い、自分の子を跡継ぎに立てようとせず、必ず伯魯の子である代の成君に位を譲ろうとした。ところが成君が先に死んだので、代の成君の子の浣(かん)を太子に立てた。襄子は即位して三十三年で死に、浣が立った。これが献侯である。献侯は幼くして即位し、中牟(ちゅうぼう)で政治を執った。襄子の弟の桓子(かんし)が献侯を追い出し、自ら代で君位に就いたが、一年で死んだ。国の人々は、桓子が立ったのは襄子の意志ではないと言い、共にその子を殺して、再び献侯を迎えて立てた。十年、中山の武公が初めて立った。十三年、平邑(へいゆう)に城を築いた。十五年、献侯が死に、子の烈侯籍(せき)が立った。烈侯の元年、魏の文侯が中山を討ち、太子の撃(げき)にその地を守らせた。六年、魏・韓・趙がそろって諸侯となった。献子を追尊して献侯とした。烈侯は音楽を好んだ。相国の公仲連(こうちゅうれん)に言った。「わたしには気に入っている者がいる。その者たちを高い身分にしてやってもよいか」。公仲は言った。「富ませるのはよいが、身分を高くするのはいけない」。烈侯は言った。「そうか。では、あの鄭の歌い手の槍(そう)と石(せき)の二人に田地を与えよう。一人に一万畝ずつだ」。公仲は「承知した」と言ったが、与えなかった。一か月たって、烈侯は代から戻ると、歌い手の田地はどうなったかと尋ねた。公仲は「探しているが、まだよい土地がない」と言った。しばらくして烈侯がまた尋ねた。公仲はついに与えず、病と称して朝廷に出なかった。番吾君(はんごくん)が代からやって来て、公仲に言った。「あなたは本当に善を好んでいるが、それをどう実行すればよいかをご存じない。今、あなたが趙の宰相になって四年になるが、人材を推挙したことはあるか」。公仲は「まだない」と言った。番吾君は言った。「牛畜(ぎゅうちく)・荀欣(じゅんきん)・徐越(じょえつ)はみな推挙に値する」。公仲はそこで三人を推挙した。朝廷に出ると、烈侯はまた「歌い手の田地はどうなった」と尋ねた。公仲は「今、よい土地を選ばせているところだ」と言った。牛畜は烈侯に仕えて仁義を説き、王道によって身を律するよう勧めた。烈侯はゆったりと心を開いた。翌日は荀欣が仕えて、人材をよく選んで賢者を登用し、官職に就けて能力ある者を使うことを説いた。その翌日は徐越が仕えて、財を節約して費用を切り詰め、功績と徳行をよく見極めることを説いた。三人の説くことはどれも行き届いていたので、君は喜んだ。烈侯は使者を遣わして相国に伝えた。「歌い手の田地の件はしばらく取りやめよ」。
解説
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史記 趙世家牛畜を官して師と為し、荀欣を中尉と為し、徐越を内史と為し、相国に衣二襲を賜ふ。九年、烈侯卒し、弟武公立つ。武公十三年に卒し、趙復た烈侯の太子章を立つ、是を敬侯と為す。是の歳、魏の文侯卒す。敬侯元年、武公の子朝乱を作すも、克たず、出でて魏に奔る。趙始めて邯鄲に都す。二年、斉を霊丘に敗る。三年、魏を廩丘に救ひ、大いに斉人を敗る。四年、魏我を兎台に敗る。剛平に築きて以て衛を侵す。五年、斉・魏衛の為に趙を攻め、我が剛平を取る。六年、兵を楚に借りて魏を伐ち、棘蒲を取る。八年、魏の黄城を抜く。九年、斉を伐つ。斉燕を伐つ。趙燕を救ふ。十年、中山と房子に戦ふ。十一年、魏・韓・趙共に晋を滅ぼし、其の地を分つ。中山を伐ち、又中人に戦ふ。十二年、敬侯卒し、子成侯種立つ。成侯元年、公子勝成侯と立つを争ひ、乱を為す。二年六月、雪雨る。三年、太戊午相と為る。衛を伐ち、郷邑七十三を取る。魏我を藺に敗る。四年、秦と高安に戦ひ、之を敗る。五年、斉を鄄に伐つ。魏我を懐に敗る。鄭を攻めて之を敗り、以て韓に与ふ。韓我に長子を与ふ。六年、中山長城を築く。魏を伐ち、湪沢に敗り、魏の恵王を囲む。七年、斉を侵し、長城に至る。韓と周を攻む。八年、韓と周を分ちて以て両と為す。九年、斉と阿の下に戦ふ。十年、衛を攻め、甄を取る。十一年、秦魏を攻む。趙之を石阿に救ふ。十二年、秦魏の少梁を攻む。趙之を救ふ。十三年、秦の献公、庶長国をして魏の少梁を伐たしめ、其の太子・痤を虜にす。魏我を澮に敗り、皮牢を取る。成侯、韓の昭侯と上党に遇ふ。十四年、韓と秦を攻む。十五年、魏を助けて斉を攻む。十六年、韓・魏と晋を分ち、晋君を封ずるに端氏を以てす。十七年、成侯、魏の恵王と葛孽に遇ふ。
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史記 趙世家簡子、陽虎と衛の太子蒯聵を衛に送る。衛内れず、戚に居る。晋の定公二十一年、簡子邯鄲を抜く。中行文子柏人に奔る。簡子又柏人を囲む。中行文子・范昭子遂に斉に奔る。趙竟に邯鄲・柏人を有つ。范・中行の余邑晋に入る。趙は名は晋の卿なるも、実は晋の権を専らにし、奉邑は諸侯に侔し。晋の定公三十年、定公、呉王夫差と長を黄池に争ふ。趙簡子晋の定公に従ひ、卒に呉に長たり。定公三十七年に卒す。而して簡子三年の喪を除き、期のみ。是の歳、越王句践呉を滅ぼす。晋の出公十一年、知伯鄭を伐つ。趙簡子疾む。太子毋卹をして将として鄭を囲ましむ。知伯酔ひ、酒を以て毋卹に灌ぎ撃つ。毋卹の群臣之に死せんことを請ふ。毋卹曰く、「君の毋卹を置く所以は、能く訽を忍ぶが為なり」と。然れども亦知伯を慍む。知伯帰り、因りて簡子に謂ひ、毋卹を廃せしめんとす。簡子聴かず。毋卹此に由りて知伯を怨む。晋の出公十七年、簡子卒し、太子毋卹代はりて立つ、是を襄子と為す。趙襄子の元年、越呉を囲む。襄子喪食を降し、楚隆をして呉王を問はしむ。襄子の姊前に代王の夫人為り。簡子既に葬られ、未だ服を除かず、北のかた夏屋に登り、代王を請ふ。廚人をして銅枓を操りて以て代王及び従者に食はしめ、行斟して、陰かに宰人をして各々枓を以て代王及び従官を撃殺せしめ、遂に兵を興して代の地を平ぐ。其の姊之を聞き、泣きて天を呼び、笄を摩して自殺す。代人之を憐み、死せし所の地を之に名づけて摩笄の山と為す。遂に代を以て伯魯の子周を封じて代の成君と為す。伯魯は襄子の兄、故の太子なり。太子蚤く死す、故に其の子を封ず。襄子立ちて四年、知伯、趙・韓・魏と尽く其の范・中行の故地を分つ。晋の出公怒り、斉・魯に告げ、以て四卿を伐たんと欲す。
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史記 趙世家是に於て趙乃ち輟め、秦に謝して斉を撃たず。王燕王と遇ふ。廉頗将として、斉の昔陽を攻め、之を取る。十七年、楽毅趙の師に将として魏の伯陽を攻む。而して秦、趙の己と斉を撃たざるを怨み、趙を伐ち、我が両城を抜く。十八年、秦我が石城を抜く。王再び衛の東陽に之き、河水を決し、魏氏を伐つ。大いに潦し、漳水出づ。魏冉来りて趙に相たり。十九年、秦我が二城を取る。趙魏に伯陽を与ふ。趙奢将として、斉の麦丘を攻め、之を取る。二十年、廉頗将として斉を攻む。王秦の昭王と西河の外に遇ふ。二十一年、趙漳水を武平の西に徙す。二十二年、大いに疫す。公子丹を置きて太子と為す。二十三年、楼昌将として、魏の幾を攻むるも、取ること能はず。十二月、廉頗将として、幾を攻め、之を取る。二十四年、廉頗将として、魏の房子を攻め、之を抜き、因りて城きて還る。又安陽を攻め、之を取る。二十五年、燕周将として、昌城・高唐を攻め、之を取る。魏と共に秦を撃つ。秦の将白起我を華陽に破り、一将軍を得たり。二十六年、東胡の代を欧ひし地を取る。二十七年、漳水を武平の南に徙す。趙豹を封じて平陽君と為す。河水出で、大いに潦す。二十八年、藺相如斉を伐ち、平邑に至る。城北の九門の大城を罷む。燕の将成安君公孫操其の王を弑す。二十九年、秦・韓相攻めて、閼与を囲む。趙、趙奢をして将として秦を撃たしめ、大いに秦軍を閼与の下に破り、号を賜ひて馬服君と為す。三十三年、恵文王卒し、太子丹立つ、是を孝成王と為す。孝成王元年、秦我を伐ち、三城を抜く。趙王新たに立ち、太后事を用ふ。秦急に之を攻む。趙氏救ひを斉に求む。斉曰く、「必ず長安君を以て質と為さば、兵乃ち出でん」と。太后肯ぜず。大臣彊く諫む。
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史記 趙世家趙衰、重耳に従ひて出亡すること凡そ十九年、国に反ることを得たり。重耳晋の文公と為り、趙衰原の大夫と為り、原に居り、国政に任ず。文公の国に反り及び霸たる所以は、多く趙衰の計策なり。語は晋の事の中に在り。趙衰既に晋に反り、晋の妻固く翟の妻を迎へんことを要め、而して其の子盾を以て適嗣と為し、晋の妻の三子皆下りて之に事ふ。晋の襄公の六年にして趙衰卒し、諡して成季と為す。趙盾、成季に代はりて国政に任ずること二年にして晋の襄公卒す。太子夷皋年少し。盾、国の多難なるが為に、襄公の弟雍を立てんと欲す。雍時に秦に在り。使をして之を迎へしむ。太子の母日夜啼泣し、頓首して趙盾に謂ひて曰く、「先君何の罪かある。其の適子を釈きて更に君を求むるか」と。趙盾之を患へ、其の宗と大夫との襲ひて之を誅せんことを恐れ、乃ち遂に太子を立つ、是を霊公と為す。兵を発して襄公の弟を秦に迎ふる所の者を距ぐ。霊公既に立ち、趙盾益々国政を専らにす。霊公立ちて十四年、益々驕る。趙盾驟々諫むれども、霊公聴かず。熊蹯を食らふに及び、胹て熟せず、宰人を殺し、其の尸を持ちて出づ。趙盾之を見る。霊公此に由りて懼れ、盾を殺さんと欲す。盾素より仁にして人を愛す。嘗て食はせし所の桑下の餓人、反りて捍ぎて盾を救ふ。盾以て亡ぐるを得たり。未だ境を出でずして、趙穿霊公を弑して襄公の弟黒臀を立つ、是を成公と為す。趙盾復た反りて国政に任ず。君子盾を譏る、「正卿と為りて、亡げて境を出でず、反りて賊を討たず」と。故に太史書して曰く「趙盾其の君を弑す」と。晋の景公の時にして趙盾卒し、諡して宣孟と為す。子朔嗣ぐ。趙朔、晋の景公の三年、朔晋の将として下軍に将として鄭を救ひ、楚の荘王と河上に戦ふ。朔、晋の成公の姊を娶りて夫人と為す。晋の景公の三年、大夫屠岸賈、趙氏を誅せんと欲す。初め、趙盾在りし時、夢に叔帯の要を持ちて哭するを見る。甚だ悲し。已にして笑ひ、手を拊ちて且つ歌ふ。
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史記 趙世家子及ばざるなり」と。遂に胡服して騎射を招く。二十年、王中山の地を略し、寧葭に至る。西のかた胡の地を略し、楡中に至る。林胡王馬を献ず。帰りて、楼緩をして秦に之かしめ、仇液を韓に、王賁を楚に、富丁を魏に、趙爵を斉に之かしむ。代の相趙固胡を主り、其の兵を致す。二十一年、中山を攻む。趙袑右軍と為り、許鈞左軍と為り、公子章中軍と為り、王并せて之に将たり。牛翦車騎に将たり。趙希并せて胡・代に将たり。趙之に陘を与へ、軍を曲陽に合し、丹丘・華陽・鴟の塞を攻め取る。王の軍鄗・石邑・封龍・東垣を取る。中山四邑を献じて和す。王之を許し、兵を罷む。二十三年、中山を攻む。二十五年、恵后卒す。周袑をして胡服して王子何に傅たらしむ。二十六年、復た中山を攻め、地を攘ひて北は燕・代に至り、西は雲中・九原に至る。二十七年五月戊申、大いに東宮に朝し、国を伝へ、王子何を立てて以て王と為す。王廟見の礼畢はり、出でて朝に臨む。大夫悉く臣と為る。肥義相国と為り、并せて王に傅たり。是を恵文王と為す。恵文王は、恵后呉娃の子なり。武霊王自ら号して主父と為す。主父、子をして国を治むるを主らしめんと欲して、身は胡服して士大夫を将ゐて西北のかた胡の地を略し、而して雲中・九原より直ちに南して秦を襲はんと欲す。是に於て詐りて自ら使者と為りて秦に入る。秦の昭王知らず。已にして其の状甚だ偉にして、人臣の度に非ざるを怪しみ、人をして之を逐はしむ。而るに主父馳せて已に関を脱す。審らかに之を問へば、乃ち主父なり。秦人大いに驚く。主父の秦に入りし所以の者は、自ら地形を略し、因りて秦王の人と為りを観んと欲すればなり。恵文王二年、主父新地を行り、遂に代に出で、西のかた楼煩王に西河に遇ひて其の兵を致す。三年、中山を滅ぼし、其の王を膚施に遷す。霊寿を起こし、北地方に従ひ、代の道大いに通ず。
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