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史記 / 楚元王世家

王純立,地節二年,中人上書告楚王謀反,王自殺,國除,入漢為彭城郡。趙王劉遂者,其父高祖中子,名友,謚曰「幽」。幽王以憂死,故為「幽」。高后王呂祿於趙,一歲而高后崩。大臣誅諸呂呂祿等,乃立幽王子遂為趙王。孝文帝即位二年,立遂弟辟彊,取趙之河閒郡為河閒王,是為文王。立十三年卒,子哀王福立。一年卒,無子,絕後,國除,入于漢。遂既王趙二十六年,孝景帝時坐晁錯以適削趙王常山之郡。吳楚反,趙王遂與合謀起兵。其相建德、內史王悍諫,不聽。遂燒殺建德、王悍,發兵屯其西界,欲待吳與俱西。北使匈奴,與連和攻漢。漢使曲周侯酈寄擊之。趙王遂還,城守邯鄲,相距七月。吳楚敗於梁,不能西。匈奴聞之,亦止,不肯入漢邊。欒布自破齊還,乃并兵引水灌趙城。趙城壞,趙王自殺,邯鄲遂降。趙幽王絕後。太史公曰:國之將興,必有禎祥,君子用而小人退。國之將亡,賢人隱,亂臣貴。使楚王戊毋刑申公,遵其言,趙任防與先生,豈有篡殺之謀,為天下僇哉?賢人乎,賢人乎!非質有其內,惡能用之哉?甚矣,「安危在出令,存亡在所任」,誠哉是言也!

新字:王純立,地節二年,中人上書告楚王謀反,王自殺,国除,入漢為彭城郡。趙王劉遂者,其父高祖中子,名友,謚曰「幽」。幽王以憂死,故為「幽」。高后王呂禄於趙,一歳而高后崩。大臣誅諸呂呂禄等,乃立幽王子遂為趙王。孝文帝即位二年,立遂弟辟彊,取趙之河閒郡為河閒王,是為文王。立十三年卒,子哀王福立。一年卒,無子,絶後,国除,入于漢。遂既王趙二十六年,孝景帝時坐晁錯以適削趙王常山之郡。呉楚反,趙王遂与合謀起兵。其相建徳、内史王悍諫,不聴。遂焼殺建徳、王悍,発兵屯其西界,欲待呉与倶西。北使匈奴,与連和攻漢。漢使曲周侯酈寄撃之。趙王遂還,城守邯鄲,相距七月。呉楚敗於梁,不能西。匈奴聞之,亦止,不肯入漢辺。欒布自破斉還,乃并兵引水灌趙城。趙城壊,趙王自殺,邯鄲遂降。趙幽王絶後。太史公曰:国之将興,必有禎祥,君子用而小人退。国之将亡,賢人隠,乱臣貴。使楚王戊毋刑申公,遵其言,趙任防与先生,豈有篡殺之謀,為天下僇哉?賢人乎,賢人乎!非質有其内,悪能用之哉?甚矣,「安危在出令,存亡在所任」,誠哉是言也!

書き下し

王純立ち、地節二年、中人上書して楚王の謀反を告ぐ、王自殺し、国除かれ、漢に入りて彭城郡と為る。趙王劉遂は、其の父は高祖の中子、名は友、謚して「幽」と曰ふ。幽王憂ひを以て死す、故に「幽」と為す。高后呂禄を趙に王とす、一歳にして高后崩ず。大臣諸呂呂禄等を誅し、乃ち幽王の子遂を立てて趙王と為す。孝文帝即位して二年、遂の弟辟彊を立て、趙の河間郡を取りて河間王と為す、[是れ]を文王と為す。立ちて十三年にして卒し、子哀王福立つ。一年にして卒し、子無く、後を絶ち、国除かれ、漢に入る。遂既に趙に王たること二十六年、孝景帝の時晁錯に坐して適を以て趙王の常山の郡を削らる。呉楚反き、趙王遂与に合謀して兵を起こす。其の相建徳・内史王悍諫む、聴かず。遂建徳・王悍を焼殺し、兵を発して其の西界に屯し、呉と倶に西せんことを待たんと欲す。北のかた匈奴に使ひし、与に連和して漢を攻む。漢、曲周侯酈寄をして之を撃たしむ。趙王遂還り、邯鄲に城守し、相距ぐこと七月。呉楚梁に敗れ、西する能はず。匈奴之を聞き、亦た止みて、肯へて漢の辺に入らず。欒布斉を破りて還り、乃ち兵を并せ水を引きて趙の城に灌ぐ。趙の城壊れ、趙王自殺し、邯鄲遂に降る。趙の幽王後を絶つ。太史公曰く、国の将に興らんとするや、必ず禎祥有り、君子用ひられて小人退く。国の将に亡びんとするや、賢人隠れ、乱臣貴し。楚王戊をして申公を刑すること毋く、其の言に遵はしめ、趙をして防与先生に任ぜしめば、豈に簒殺の謀有りて、天下の僇と為らんや。賢人か、賢人か。質其の内に有るに非ずんば、悪んぞ能く之を用ひんや。甚だしいかな、「安危は令を出だすに在り、存亡は任ずる所に在り」と、誠なるかな是の言や。

現代語訳

劉純が立って、地節二年、宦官が上書して楚王の謀反を告げた。楚王は自殺し、国は廃されて漢の直轄となり、彭城郡となった。趙王劉遂の父は高祖の中ほどの子で、名は友、諡(おくりな)は「幽」という。幽王は(呂后に幽閉されて)憂いのうちに死んだので「幽」とされた。高后(呂后)は呂禄を趙王としたが、一年後に高后は崩じた。大臣たちが呂禄ら呂氏一族を誅殺し、幽王の子の劉遂を趙王に立てた。孝文帝が即位して二年目、劉遂の弟の辟彊(へききょう)を立て、趙の河間郡を割いて河間王とした。これが文王である。文王は立って十三年で亡くなり、子の哀王福が立った。哀王は一年で亡くなり、子がなかったので家は絶え、国は廃されて漢の直轄となった。劉遂が趙王となって二十六年目、孝景帝の時代に、晁錯(ちょうそ)の献策によって過失を理由に趙王の常山郡を削られた。呉楚が反乱を起こすと、趙王劉遂はこれと共謀して兵を起こした。宰相の建徳と内史の王悍が諫めたが、聞き入れなかった。劉遂は建徳と王悍を焼き殺し、兵を出して西の国境に駐屯させ、呉と一緒に西へ攻め上ることを待とうとした。また北の匈奴に使者を送り、手を結んで漢を攻めようとした。漢は曲周侯酈寄(れきき)に趙を攻撃させた。趙王劉遂は引き返して邯鄲に籠城し、七か月にわたって対峙した。呉楚は梁で敗れて西へ進めなかった。匈奴もこれを聞いて手を引き、漢の辺境に入ろうとしなかった。欒布(らんぷ)が斉を破って引き返し、兵を合わせて川の水を引き入れ、趙の城に注いだ。趙の城は崩れ、趙王は自殺し、邯鄲はついに降伏した。趙の幽王の家系は絶えた。太史公は言う。国が興ろうとするときには必ずめでたい兆しがあり、君子が用いられて小人が退けられる。国が滅びようとするときには、賢人が隠れ、乱臣が重んじられる。もし楚王劉戊が申公を刑に処さず、その言葉に従っていたら、また趙王が防与先生を任用していたら、どうして簒奪や殺戮を企て、天下の笑いものとなって殺されることがあったろうか。賢人よ、賢人よ。君主自身に中身がなければ、どうして賢人を用いることができようか。まことに深い言葉ではないか。「国の安危は出す命令にかかっており、存亡は誰を任用するかにかかっている」というのは、真実である。

解説

楚王家の断絶と、趙王家の滅亡を記し、司馬遷の評で結ばれます。趙王劉遂は、晁錯の削藩策で領地を削られたことを恨んで呉楚の乱に加わり、諫めた宰相と内史を焼き殺し、匈奴とまで手を結ぼうとしました。しかし呉楚は梁で敗れ、匈奴も動かず、七か月の籠城の末に水攻めで城を破られて自殺します。司馬遷は評で、楚王が儒者の申公を罰せずその言葉に従っていれば、趙王が防与先生を用いていれば、滅びはしなかったと嘆きます。そして「賢人を用いるには、君主自身に中身がなければならない」と核心を突き、「安危は令を出すに在り、存亡は任ずる所に在り」という古語で締めくくります。諫言した部下を殺す組織は滅ぶ。そして良い人材を生かせるかどうかは、トップ自身の器にかかっているのです。

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