春秋左氏伝 / 成公二年 丑父を赦す
郤子曰。人不難以死免其君。我戮之不祥。赦之以勸事君者。乃免之。齊侯免。求丑父。三入三出。每出齊師以帥退。入于狄卒。狄卒皆抽戈楯冒之以入于衛師。衛師免之。遂自徐關入。齊侯見保者曰勉之。齊師敗矣。辟女子。女子曰。君免乎。曰。免矣。曰。銳司徒免乎。曰。免矣。曰。苟君與吾父免矣。可若何。乃奔。齊侯以為有禮。既而問之。辟司徒之妻也。予之石窌。晉師從齊師。入自丘輿。擊馬陘。齊侯使賓媚人。賂以紀甗。玉磬。與地。不可。則聽客之所為。賓媚人致賂。晉人不可。曰。必以蕭同叔子為質。而使齊之封內。盡東其畝。對曰。
新字:郤子曰。人不難以死免其君。我戮之不祥。赦之以勧事君者。乃免之。斉侯免。求丑父。三入三出。毎出斉師以帥退。入于狄卒。狄卒皆抽戈楯冒之以入于衛師。衛師免之。遂自徐関入。斉侯見保者曰勉之。斉師敗矣。辟女子。女子曰。君免乎。曰。免矣。曰。鋭司徒免乎。曰。免矣。曰。苟君与吾父免矣。可若何。乃奔。斉侯以為有礼。既而問之。辟司徒之妻也。予之石窌。晋師従斉師。入自丘輿。撃馬陘。斉侯使賓媚人。賂以紀甗。玉磬。与地。不可。則聴客之所為。賓媚人致賂。晋人不可。曰。必以蕭同叔子為質。而使斉之封内。尽東其畝。対曰。
書き下し
郤子曰く、「人死を以て其の君を免るることを難しとせず。我之を戮するは不祥なり。之を赦して以て君に事ふる者を勸めん」と。乃ち之を免す。齊侯免れ、丑父を求めて、三たび入り三たび出づ。出づる每に齊の師以て帥ゐて退く。狄の卒に入る、狄の卒皆戈楯を抽きて之を冒ひ、以て衛の師に入る、衛の師之を免す。遂に徐關より入る。齊侯保者を見て曰く、「之を勉めよ、齊の師敗れたり」と。女子を辟けしむ。女子曰く、「君免れたるか」と。曰く、「免れたり」と。曰く、「銳司徒免れたるか」と。曰く、「免れたり」と。曰く、「苟くも君と吾が父と免れたらば、若何すべき」と。乃ち奔る。齊侯以て禮有りと為す。既にして之を問へば、辟司徒の妻なり。之に石窌を予ふ。晉の師齊の師に從ひ、丘輿より入り、馬陘を擊つ。齊侯賓媚人をして、賂ふに紀の甗・玉磬と地とを以てせしめ、「不可ならば、則ち客の為す所を聽け」とす。賓媚人賂を致す。晉人可かずして、曰く、「必ず蕭同叔子を以て質と為し、而して齊の封內をして、盡く其の畝を東にせしめよ」と。對へて曰く、
現代語訳
郤子(郤克)は言った。「命を捨ててでも自分の君を救うことを、難事と思わない者がいる。そういう者を私が殺すのは不吉だ。赦して、君に仕える者たちの励みとしよう」。そこで丑父を赦した。斉侯(頃公)は難を逃れると、丑父を探し求めて、三度敵陣に入っては三度出てきた。出てくるたびに、斉の兵たちが斉侯を守りながら退いた。斉侯は晋に従う狄の兵の陣に入り込んだが、狄の兵たちはみな戈と盾を構えて斉侯を覆い守り、そのまま衛の陣に入っていくと、衛の兵もまた斉侯を見逃した。こうして斉侯は徐関から国内に入った。斉侯は城を守る者たちを見て、「しっかり守れ。斉軍は敗れたぞ」と言った。先払いの者が道にいた女を退かせようとした。女は言った。「君はご無事ですか」。「ご無事だ」と答えると、「鋭司徒(弩兵を司る官)は無事ですか」と尋ねた。「無事だ」と答えると、女は言った。「君とわが父が無事なら、ほかに何を言うことがありましょう」。そして走り去った。斉侯は、まず君の安否を尋ねたこの女を礼をわきまえていると思った。あとで尋ねてみると、辟司徒(城塁を司る官)の妻であった。斉侯は彼女に石窌の地を与えた。晋軍は斉軍を追って丘輿から斉に入り、馬陘を攻めた。斉侯は賓媚人(国佐、斉の卿)を遣わし、紀の国から得た甗(こしき)と玉磬、それに土地を贈って和睦を求めさせ、「もし晋が承知しなければ、あとは相手のなすがままに任せよ(一戦を交えよ)」と命じた。賓媚人は贈り物を差し出したが、晋人は承知せずに言った。「必ず蕭同叔子(斉侯の母)を人質とし、そのうえで斉の領内の田の畝をすべて東西向きに改めさせよ」。賓媚人は答えて言った。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』成公二年 逢丑父、君と位を易う其の右を射る、車中に斃る。綦毋張車を喪ひ、韓厥に從ひて曰く、「請ふ寓乘せん」と。左右に從ふ、皆之を肘し、後に立たしむ。韓厥俛して其の右を定む。逢丑父公と位を易ふ。將に華泉に及ばんとし、驂木に絓りて止まる。丑父轏中に寢ね、蛇其の下より出づ、肱を以て之を擊ち、傷つきて之を匿す、故に車を推して及ばるること能はず。韓厥縶を執りて馬前にし、再拜稽首し、觴を奉じ璧を加へて以て進めて、曰く、「寡君群臣をして魯・衛の為に請はしめて、曰く、『輿師をして、君の地に陷入せしむること無かれ』と。下臣不幸にして、屬戎行に當り、逃隱する所無し。且つ奔辟して、兩君を忝めんことを懼る。臣戎士を辱む、敢へて不敏を告ぐ。官を攝りて乏を承けん」と。丑父公をして下りて華泉に如き飲を取らしむ。鄭周父佐車に御し、宛茷右と為り、齊侯を載せて以て免る。韓厥丑父を獻ず、郤獻子將に之を戮せんとす。呼びて曰く、「今より其の君に代りて患に任ずる者有ること無からん。此に一有り、將に戮せられんとするか」と。
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『春秋左氏伝』哀公十五年 子路、纓を結びて死す閏月、良夫、大子と入り、孔氏の外圃に舍る。昏に、二人、衣を蒙りて乘り、寺人羅、御す。孔氏に如く。孔氏の老欒寧、之を問ふ。姻妾と稱して以て告ぐ。遂に入り、伯姬氏に適く。既に食す。孔伯姬、戈を杖きて先んじ、大子と五人と介し、豭を輿きて之に從ふ。孔悝を廁に迫りて強ひて之と盟ひ、遂に劫かして以て臺に登る。欒寧、將に酒を飲まんとす。炙未だ熟せず。亂を聞き、季子に告げしむ。獲を召して乘車に駕せしめ、爵を行ひ炙を食ひ、衛侯輒を奉じて來奔す。季子、將に入らんとし、子羔の將に出でんとするに遇ふ。曰く、「門已に閉ぢたり」と。季子曰く、「吾姑く焉に至らん」と。子羔曰く、「及ばず。其の難を踐むこと勿かれ」と。季子曰く、「焉に食めり。其の難を辟けず」と。子羔遂に出づ。子路入る。門に及ぶ。公孫敢、焉に門して曰く、「入りて為す無きなり」と。季子曰く、「是れ公孫なり。利を焉に求めて其の難を逃る。由は然らず。其の祿を利とせば、必ず其の患を救はん」と。使者の出づる有り。乃ち入りて曰く、「大子焉んぞ孔悝を用ゐん。之を殺すと雖も、必ず或いは之を繼がん」と。且つ曰く、「大子は勇無し。若し臺を燔くこと半ばならば、必ず孔叔を舍かん」と。大子之を聞きて懼れ、石乞・盂黶を下して子路に敵せしむ。戈を以て之を擊ち、纓を斷つ。子路曰く、「君子は死すとも、冠は免がず」と。纓を結びて死す。孔子、衛の亂を聞きて曰く、「柴や其れ來らん。由や死せん」と。孔悝、莊公を立つ。莊公、故政を害とし、盡く之を去らんと欲す。先づ司徒瞞成に謂ひて曰く、「寡人、病に外に離ること久し。子請ふ亦た之を嘗めよ」と。歸りて褚師比に告げ、之と公を伐たんと欲す。果さず。
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史記 仲尼弟子列伝子路蒲の大夫と為り、孔子に辞す。孔子曰く、「蒲は壮士多く、又治め難し。然れども吾汝に語げん。恭にして以て敬なれば、以て勇を執るべし。寛にして以て正なれば、以て衆に比すべし。恭正にして以て静なれば、以て上に報ゆべし」と。初め、衛の霊公に寵姫有り南子と曰ふ。霊公の太子蕢聵南子に過を得、誅を懼れて出奔す。霊公卒するに及び夫人公子郢を立てんと欲す。郢肯んぜず、曰く、「亡人太子の子輒在り」と。是に於いて衛輒を立てて君と為す、是れ出公為り。出公立つこと十二年、其の父蕢聵外に居り、入るを得ず。子路衛の大夫孔悝の邑宰と為る。蕢聵乃ち孔悝と乱を作し、謀りて孔悝の家に入り、遂に其の徒と出公を襲ひ攻む。出公魯に奔り、而して蕢聵入りて立つ、是れ荘公為り。孔悝乱を作すに方りて、子路外に在り、之を聞きて馳せ往く。子羔の衛の城門を出づるに遇ふ、子路に謂ひて曰く、「出公去れり、而して門已に閉づ、子還るべし、空しく其の禍を受くる毋かれ」と。子路曰く、「其の食を食む者は其の難を避けず」と。子羔卒に去る。使者の城に入る有り、城門開く、子路随ひて入る。蕢聵に造る、蕢聵孔悝と台に登る。子路曰く、「君焉んぞ孔悝を用ひん。請ふ得て之を殺さん」と。蕢聵聴かず。是に於いて子路台を燔かんと欲す、蕢聵懼れ、乃ち石乞・壺黶を下して子路を攻めしめ、子路の纓を撃ち断つ。子路曰く、「君子は死すとも冠は免がず」と。遂に纓を結びて死す。孔子衛の乱を聞きて、曰く、「嗟乎、由死せん」と。已にして果たして死す。故に孔子曰く、「吾由を得てより、悪言耳に聞こえず」と。是の時子貢魯の為に斉に使ひす。
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『春秋左氏伝』成公十六年 再び国君を辱めず郤至三たび楚子の卒に遇ふ。楚子を見れば必ず下り、冑を免ぎて趨ること風のごとし。楚子工尹襄をして之に問ふに弓を以ってせしめて曰く、「事の殷なるに方りて、韎韋の跗注有る者は、君子なり。不穀を識見して趨る、乃ち傷つくこと無からんや」と。郤至客に見え、冑を免ぎて命を承けて曰く、「君の外臣至、寡君の戎事に從ひ、君の靈を以って、間ま甲冑を蒙る。敢へて命を拜せず。敢へて寧からざるを告ぐ、君命の辱きに。事の為の故に、敢へて使者に肅す」と。三たび使者に肅して退く。晉の韓厥鄭伯に從ふ。其の御杜溷羅曰く、「速かに之に從へ。其の御屢しば顧みて、馬に在らず。及ぶ可きなり」と。韓厥曰く、「以って再び國君を辱しむ可からず」と。乃ち止む。郤至鄭伯に從ふ。其の右茀翰胡曰く、「諜して之を輅へん。余之に從ひて乘り、俘にして以って下らん」と。郤至曰く、「國君を傷つくれば刑有り」と。亦た止む。石首曰く、「衞の懿公唯だ其の旗を去らず、是を以って熒に敗る」と。乃ち旌を弢中に內る。唐苟石首に謂ひて曰く、「子は君の側に在り。敗者は壹に大なり。我子に如かず。子は君を以って免れよ。我請ふ止まらん」と。乃ち死す。
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史記 春申君列伝黄歇約を受けて楚に帰る。楚、歇をして太子完と入りて秦に質たらしむ、秦これを留むること数年。楚の頃襄王病む、太子帰るを得ず。而して楚の太子は秦の相応侯と善し、是に於いて黄歇乃ち応侯に説きて曰く、「相国誠に楚の太子を善くするか」と。応侯曰く、「然り」と。歇曰く、「今、楚王恐らくは疾より起たざらん、秦はその太子を帰すに如かず。太子立つを得ば、その秦に事ふること必ず重くして相国を徳とすること窮まり無からん、是れ与国に親しみて万乗を儲くるを得るなり。若し帰さずんば、則ち咸陽の一布衣のみ。楚更に太子を立てば、必ず秦に事へざらん。夫れ与国を失ひて万乗の和を絶つは、計に非ざるなり。願はくは相国これを孰慮せよ」と。応侯以て秦王に聞す。秦王曰く、「楚の太子の傅をして先づ往きて楚王の疾を問はしめ、返りて後にこれを図らん」と。黄歇、楚の太子の為に計りて曰く、「秦の太子を留むるや、以て利を求めんと欲するなり。今、太子の力未だ以て秦を利する有る能はざるなり、歇これを憂ふること甚だし。而して陽文君の子二人中に在り、王若し大命を卒へ、太子在らずんば、陽文君の子必ず立ちて後と為り、太子は宗廟を奉ずるを得ざらん。秦を亡れ、使者と倶に出づるに如かず。臣請ふ止まり、死を以てこれに当たらん」と。楚の太子因りて衣服を変じ楚の使者の御と為りて以て関を出で、而して黄歇は舎を守り、常に為に病と謝す。太子の已に遠く、秦の追ふ能はざるを度り、歇乃ち自ら秦の昭王に言ひて曰く、「楚の太子已に帰り、出でて遠し。歇は当に死すべし、願はくは死を賜へ」と。昭王大いに怒り、その自殺を聴かんと欲す。応侯曰く、「歇は人臣と為りて、身を出だして以てその主に徇ふ。太子立たば、必ず歇を用ひん。故に罪無くしてこれを帰し、
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史記 季布欒布列伝斉に使ひし、未だ還らざるに、漢彭越を召し、責むるに謀反を以てし、三族を夷す。已にして彭越の頭を雒陽の下に梟し、詔して曰く「敢へて収め視る者有らば、輒ち之を捕へよ」と。布斉より還り、事を彭越の頭の下に奏し、祠りて之を哭す。吏布を捕へて以聞す。上布を召し、罵りて曰く「若彭越と反するか。吾人を禁じて収むる勿からしむるに、若独り祠りて之を哭す、越と反すること明らかなり。趣やかに之を亨よ」と。方に提げて湯に趣くに、布顧みて曰く「願はくは一言して死せん」と。上曰く「何をか言はん」と。布曰く「方に上の彭城に困しみ、滎陽・成皋の間に敗るるに、項王の遂に西する能はざる所以は、徒だ彭王梁の地に居り、漢と合従して楚を苦しむるを以てなり。是の時に当たり、彭王一たび顧みて、楚に与せば則ち漢破れ、漢に与せば楚破れん。且つ垓下の会、彭王微かりせば、項氏亡びず。天下已に定まり、彭王符を剖き封を受く、亦た之を万世に伝へんと欲す。今陛下一たび兵を梁に徴し、彭王病みて行かず、而るに陛下疑ひて以て反と為す、反の形未だ見えざるに、苛小の案を以て之を誅滅す、臣恐らくは功臣人人自ら危ぶまん。今彭王已に死す、臣生くるは死するに如かず、請ふ亨に就かん」と。是に於て上乃ち布の罪を釈し、拝して都尉と為す。孝文の時、燕の相と為り、将軍に至る。布乃ち称して曰く「窮困して身を辱め志を下す能はざるは、人に非ず。富貴にして意を快くする能はざるは、賢に非ず」と。是に於て嘗て徳有る者には厚く之に報い、怨み有る者には必ず法を以て之を滅す。呉・楚反せし時、軍功を以て兪侯に封ぜられ、復た燕の相と為る。燕・斉の間皆欒布の為に社を立て、欒公社と号す。景帝中五年薨ず。子賁嗣ぎ、太常と為り、犠牲令の如くならず、国除かる。太史公曰く、項羽の気を以てして、季布勇を以て楚に顕はれ、身ら軍を屨みて旗を搴ること数々なり、壮士と謂ふべし。然れども刑戮を被り、人の奴と為りて死せざるに至るは、何ぞ其の下れるや。
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