春秋左氏伝 / 宣公三年 燕姞の夢蘭
夏,楚人侵鄭,鄭即晉故也。宋文公即位三年殺母弟須,及昭公子,武氏之謀也。使戴桓之族,攻武氏於司馬子伯之館,盡逐武穆之族。武穆之族,以曹師伐宋。秋,宋師圍曹,報武氏之亂也。冬,鄭穆公卒。初,鄭文公有賤妾,曰燕姞,夢天使與己蘭,曰:「余為伯鯈,余而祖也,以是為而子,以蘭有國香,人服媚之如是。」既而文公見之,與之蘭而御之,辭曰:「妾不才,幸而有子,將不信,敢徵蘭乎?」公曰:「諾。」生穆公,名之曰蘭。文公報鄭子之妃,曰陳媯,生子華、子臧。
新字:夏,楚人侵鄭,鄭即晋故也。宋文公即位三年殺母弟須,及昭公子,武氏之謀也。使戴桓之族,攻武氏於司馬子伯之館,尽逐武穆之族。武穆之族,以曹師伐宋。秋,宋師囲曹,報武氏之乱也。冬,鄭穆公卒。初,鄭文公有賤妾,曰燕姞,夢天使与己蘭,曰:「余為伯鯈,余而祖也,以是為而子,以蘭有国香,人服媚之如是。」既而文公見之,与之蘭而御之,辞曰:「妾不才,幸而有子,将不信,敢徴蘭乎?」公曰:「諾。」生穆公,名之曰蘭。文公報鄭子之妃,曰陳媯,生子華、子臧。
書き下し
夏、楚人鄭を侵す、鄭晉に即くが故なり。宋の文公即位三年にして母弟須及び昭公の子を殺す、武氏の謀なり。戴・桓の族をして、武氏を司馬子伯の館に攻めしめ、盡く武・穆の族を逐ふ。武・穆の族、曹の師を以って宋を伐つ。秋、宋師曹を圍む、武氏の亂に報ゆるなり。冬、鄭の穆公卒す。初め、鄭の文公に賤妾有り、燕姞と曰ふ。天使の己に蘭を與ふるを夢む。曰く、「余は伯鯈(はくいう)為り、余は而(なんぢ)の祖なり。是を以って而の子と為せ。蘭は國香有るを以って、人服して之を媚(め)づること是くの如くならん」と。既にして文公之を見、之に蘭を與へて之を御す。辭して曰く、「妾不才なり、幸ひにして子有らんも、將に信ぜられざらんとす。敢へて蘭を徵(しるし)とせんか」と。公曰く、「諾」と。穆公を生む。之に名づけて蘭と曰ふ。文公鄭子の妃に報ず、陳媯と曰ふ。子華・子臧を生む。
現代語訳
夏、楚が鄭を攻めた。鄭が晋についたからである。宋の文公は即位して三年目に、同母弟の須と昭公の子を殺した(それは武氏の謀反のためであった)。戴公と桓公の子孫の一族に、司馬子伯の屋敷で武氏を攻めさせ、武公と穆公の子孫の一族をことごとく追放した。追放された武・穆の一族は曹の軍を引き連れて宋を攻めた。秋、宋軍は曹を包囲した。武氏の乱に曹が加担したことへの報復である。冬、鄭の穆公が亡くなった。これより前、鄭の文公には身分の低い妾がいて、燕姞(えんきつ)といった。燕姞は、天の使いが自分に蘭を授ける夢を見た。使いは言った。「私は伯鯈(南燕の始祖)であり、おまえの祖先である。この蘭をおまえの子とせよ。蘭は国一番の香りをもつので、人々はこれを身に帯びて愛でる。おまえの子もそのように愛されるだろう」。やがて文公が燕姞を見そめ、蘭を与えて夜伽をさせた。燕姞は辞退して言った。「私は取るに足らぬ者です。幸いに子を授かっても、あなたの子だと信じてもらえないでしょう。この蘭をそのしるしとしてもよろしいでしょうか」。文公は「よかろう」と言った。こうして穆公が生まれ、蘭と名づけられた。文公は叔父の鄭子(子儀)の妃であった陳媯と通じ、子華と子臧が生まれた。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』宣公三年 蘭を刈りて卒す子臧罪を得て出づ。子華を誘ひて之を南里に殺し、盜をして子臧を陳・宋の間に殺さしむ。又江に娶り、公子士を生む。楚に朝す。楚人之に酖(ちん)す。葉に及びて死す。又蘇に娶り、子瑕・子俞彌を生む。俞彌早く卒す。洩駕瑕を惡む。文公も亦た之を惡む。故に立てざるなり。公群公子を逐ふ。公子蘭晉に奔り、晉の文公に從ひて鄭を伐つ。石癸曰く、「吾聞く、姬・姞耦(ぐう)すれば、其の子孫必ず蕃(しげ)し、と。姞は吉人なり、后稷の元妃なり。今公子蘭は、姞の甥なり。天或いは之を啟(ひら)かん。必ず將に君と為らんとす、其の後必ず蕃からん。先づ之を納れば、以って寵を亢(たか)くす可し」と。孔將鉏・侯宣多と、之を納れ、大宮に盟ひて之を立て、以って晉と平らぐ。穆公疾有り。曰く、「蘭死せば、吾其れ死せんか。吾が生まるる所以なり」と。蘭を刈りて卒す。
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史記 鄭世家鄭子八年、斉人管至父等乱を作し、其の君襄公を弑す。十二年、宋人長万其の君湣公を弑す。鄭の祭仲死す。十四年、故の鄭の亡げし厲公突の櫟に在る者、人をして鄭の大夫甫仮を誘ひ劫かさしめ、要して以て入らんことを求む。仮曰く、「我を捨てよ。我君の為に鄭子を殺して君を入れん」と。厲公与に盟ひ、乃ち之を捨つ。六月甲子、仮、鄭子及び其の二子を殺して厲公突を迎ふ。突、櫟より復た入りて位に即く。初め、内蛇と外蛇と鄭の南門の中に闘ひ、内蛇死す。居ること六年、厲公果たして復た入る。入りて其の伯父原を譲めて曰く、「我国を亡げて外に居る。伯父我を入るるに意無し。亦甚だしきかな」と。原曰く、「君に事へて二心無きは、人臣の職なり。原罪を知れり」と。遂に自殺す。厲公是に於て甫仮に謂ひて曰く、「子の君に事ふるや二心有り」と。遂に之を誅す。仮曰く、「重徳報いられず、誠に然るかな」と。厲公突の後元年、斉の桓公始めて霸たり。五年、燕・衛、周の恵王の弟穨と王を伐つ。王出でて温に奔る。弟穨を立てて王と為す。六年、恵王急を鄭に告ぐ。厲公兵を発して周の王子穨を撃つも、勝たず。是に於て周の恵王と帰り、王櫟に居る。七年春、鄭の厲公、虢叔と王子穨を襲殺して恵王を周に入る。秋、厲公卒し、子文公踕立つ。厲公初め立ちて四歳、亡げて櫟に居る。櫟に居ること十七歳、復た入る。立ちて七歳、亡と凡そ二十八年。二十四年、文公の賤妾燕姞と曰ふ、夢に天之に蘭を与へて曰く、「余は伯鯈為り。余は爾の祖なり。是を以て而の子と為せ。蘭は国香有り」と。夢を以て文公に告ぐ。文公之を幸し、之に草蘭を予へて符と為す。遂に子を生む。名づけて蘭と曰ふ。三十六年、晋の公子重耳過る。文公礼せず。
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『春秋左氏伝』隠公三年 宋の穆公、位を譲る宋の穆公疾む。大司馬孔父を召して殤公を屬して曰く、「先君與夷を舍てて寡人を立つ、寡人敢へて忘れず。若し大夫の靈を以って、首領を保ちて以って沒するを得ば、先君若し與夷を問はば、其れ將に何の辭を以って對へんとする。請ふ子之を奉じて、以って社稷を主らしめよ。寡人死すと雖も、亦た悔無からん」と。對へて曰く、「羣臣馮を奉ぜんと願ふなり」と。公曰く、「不可なり。先君寡人を以って賢と為し、社稷を主らしむ。若し德を棄てて讓らずんば、是れ先君の舉を廢するなり。豈に能く賢なりと曰はんや。先君の令德を光昭すること、務めざる可けんや。吾子其れ先君の功を廢すること無かれ」と。公子馮をして出でて鄭に居らしむ。八月庚辰、宋の穆公卒す。殤公即位す。君子曰く、「宋の宣公は人を知ると謂ふ可し。穆公を立てて、其の子之を饗く、命ずるに義を以ってせるかな。商頌に曰く、『殷命を受くること咸宜し、百祿是れ荷ふ』と。其れ是を之れ謂ふか」と。冬、齊・鄭石門に盟ふ、盧の盟を尋ぬるなり。庚戌、鄭伯の車濟に僨る。衛の莊公齊の東宮得臣の妹に娶る、莊姜と曰ふ。美にして子無し。衛人の為に碩人を賦する所なり。又陳に娶る、厲媯と曰ふ。孝伯を生む、蚤く死す。其の娣戴媯、桓公を生む。莊姜以って己が子と為す。
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史記 鄭世家晋の文公、蘭を入れて太子と為さんと欲し、以て鄭に告ぐ。鄭の大夫石癸曰く、「吾聞く、姞姓は乃ち后稷の元妃なり、其の後当に興る者有るべしと。子蘭の母は其の後なり。且つ夫人の子尽く已に死し、余の庶子に蘭の賢に如くは無し。今囲み急なり。晋以て請ふを為す。利孰れか焉より大ならん」と。遂に晋に許し、与に盟ひ、卒に子蘭を立てて太子と為す。晋の兵乃ち罷め去る。四十五年、文公卒し、子蘭立つ、是を繆公と為す。繆公元年春、秦の繆公、三将をして兵を将ゐて鄭を襲はんと欲せしむ。滑に至り、鄭の賈人絃高に逢ふ。詐りて十二牛を以て軍を労ふ。故に秦の兵至らずして還る。晋之を崤に敗る。初め、往年鄭の文公の卒するや、鄭の司城繒賀、鄭の情を以て之を売る。秦の兵故に来る。三年、鄭兵を発して晋に従ひて秦を伐ち、秦の兵を汪に敗る。往年楚の太子商臣其の父成王を弑して代はりて立つ。二十一年、宋の華元と鄭を伐つ。華元羊を殺して士に食はしむるも、其の御羊斟に与へず。怒りて以て鄭に馳す。鄭華元を囚ふ。宋華元を贖ふ。元も亦亡げ去る。晋、趙穿をして兵を以て鄭を伐たしむ。霊公元年春、楚黿を霊公に献ず。子家・子公将に霊公に朝せんとす。子公の食指動く。子家に謂ひて曰く、「佗日指動けば、必ず異物を食らふ」と。入るに及び、霊公の黿の羹を進むるを見る。子公笑ひて曰く、「果たして然り」と。霊公其の笑ふ故を問ふ。具に霊公に告ぐ。霊公之を召し、独り羹を予へず。子公怒り、其の指を染め、之を嘗めて出づ。公怒り、子公を殺さんと欲す。子公、子家と先んぜんことを謀る。夏、霊公を弑す。鄭人、霊公の弟去疾を立てんと欲す。去疾譲りて曰く、「必ず賢を以てせば、則ち去疾は不肖なり。必ず順を以てせば、則ち公子堅長ず」と。堅は霊公の庶弟にして、去疾の兄なり。是に於て乃ち子堅を立つ、是を襄公と為す。襄公立ち、将に尽く繆氏を去らんとす。
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史記 宋微子世家十九年、宣公病み、其の弟和に譲りて曰く、「父死して子継ぎ、兄死して弟及ぶは、天下の通義なり。我其れ和を立てん」と。和も亦た三たび譲りて之を受く。宣公卒し、弟の和立つ。是を穆公と為す。穆公の九年、病み、大司馬孔父を召して謂ひて曰く、「先君宣公太子与夷を捨てて我を立つ。我敢て忘れず。我死せば、必ず与夷を立てよ」と。孔父曰く、「群臣皆公子馮を立てんことを願ふ」と。穆公曰く、「馮を立つること毋かれ。吾以て宣公に負くべからず」と。是に於て穆公馮をして出でて鄭に居らしむ。八月庚辰、穆公卒し、兄宣公の子与夷立つ。是を殤公と為す。君子之を聞きて曰く、「宋の宣公は人を知ると謂ふべし。其の弟を立てて以て義を成し、然も卒に其の子復た之を享く。殤公の元年、衛の公子州吁其の君完を弑して自立し、諸侯を得んと欲し、宋に告げしめて曰く、「馮鄭に在り、必ず乱を為さん。我と与に之を伐つべし」と。宋之を許し、与に鄭を伐ち、東門に至りて還る。二年、鄭宋を伐ち、以て東門の役に報ゆ。其の後諸侯数々来たりて侵伐す。九年、大司馬孔父嘉の妻好し。出でて、道に太宰華督に遇ふ。督説び、目して之を観る。督孔父の妻を利とし、乃ち人をして国中に宣言せしめて曰く、「殤公即位して十年のみにして、十一たび戦ふ。民苦しみて堪へず。皆孔父之を為す。我且に孔父を殺して以て民を寧んぜんとす」と。是の歳、魯其の君隠公を弑す。十年、華督孔父を攻め殺し、其の妻を取る。殤公怒る。遂に殤公を弑して、穆公の子馮を鄭に迎へて之を立つ。是を荘公と為す。荘公の元年、華督相と為る。九年、鄭の祭仲を執へ、要して突を立てて鄭君と為さしむ。祭仲許し、竟に突を立つ。十九年、荘公卒し、子の湣公捷立つ。湣公の七年、斉の桓公即位す。九年、宋に水あり。魯臧文仲をして往きて水を弔はしむ。
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『春秋左氏伝』文公十七年 子家、書を趙宣子に与う春、晉の荀林父・衛の孔達・陳の公孫寧・鄭の石楚、宋を伐ちて、討めて曰く、「何の故に君を弒す」と。猶ほ文公を立てて還る。卿書せざるは、其の所を失へばなり。夏、四月、癸亥、聲姜を葬る。齊の難有り、是を以って緩し。齊侯我が北鄙を伐つ、襄仲盟を請ふ。六月、穀に盟ふ。晉侯黃父に蒐し、遂に復た諸侯を扈に合す、宋を平らぐるなり。公會に與らず、齊の難の故なり。書に「諸侯」と曰ふは、功無ければなり。是に於いて晉侯鄭伯に見えず、以って楚に貳すと為すなり。鄭の子家執訊をして之に書を與へしめ、以って趙宣子に告げて、曰く、「寡君位に即きて三年、蔡侯を召して之と君に事ふ。九月、蔡侯敝邑に入りて以って行く。敝邑侯宣多の難を以って、寡君是を以って蔡侯と偕にするを得ず。十一月、克く侯宣多を減じて、蔡侯に隨ひて以って執事に朝す。十二年、六月、歸生寡君の嫡夷を佐けて、以って陳侯を楚に請ひて、諸を君に朝せしむ。十四年、七月、寡君又朝し、以って陳の事を蕆(を)ふ。
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