春秋左氏伝 / 宣公二年 董狐の筆
以示于朝。宣子曰:「不然。」對曰:「子為正卿,亡不越竟,反不討賊,非子而誰?」宣子曰:「嗚呼,我之懷矣,自詒伊慼,其我之謂矣。」孔子曰:「董狐,古之良史也,書法不隱。趙宣子,古之良大夫也,為法受惡,惜也。越竟乃免。」宣子使趙穿逆公子黑臀于周,而立之。壬申,朝于武宮。初,麗姬之亂,詛無畜群公子,自是晉無公族。及成公即位,乃宦卿之適子,而為之田,以為公族。又宦其餘子,亦為餘子。其庶子為公行。晉於是有公族、餘子、公行。趙盾請以括為公族,曰:「君姬氏之愛子也,微君姬氏,則臣狄人也。」公許之。冬,趙盾為旄車之族,使屏季以其故族為公族大夫。
新字:以示于朝。宣子曰:「不然。」対曰:「子為正卿,亡不越竟,反不討賊,非子而誰?」宣子曰:「嗚呼,我之懐矣,自詒伊慼,其我之謂矣。」孔子曰:「董狐,古之良史也,書法不隠。趙宣子,古之良大夫也,為法受悪,惜也。越竟乃免。」宣子使趙穿逆公子黒臀于周,而立之。壬申,朝于武宮。初,麗姫之乱,詛無畜群公子,自是晋無公族。及成公即位,乃宦卿之適子,而為之田,以為公族。又宦其余子,亦為余子。其庶子為公行。晋於是有公族、余子、公行。趙盾請以括為公族,曰:「君姫氏之愛子也,微君姫氏,則臣狄人也。」公許之。冬,趙盾為旄車之族,使屏季以其故族為公族大夫。
書き下し
以って朝に示す。宣子曰く、「然らず」と。對へて曰く、「子は正卿為り、亡げて竟を越えず、反りて賊を討たず。子に非ずして誰ぞ」と。宣子曰く、「嗚呼、『我の懷(おも)ひ、自ら伊(こ)の慼(うれ)ひを詒(のこ)す』とは、其れ我の謂なり」と。孔子曰く、「董狐は、古の良史なり、書法隱さず。趙宣子は、古の良大夫なり、法の為に惡を受く。惜しいかな、竟を越えなば乃ち免れん」と。宣子趙穿をして公子黑臀を周に逆へしめて、之を立つ。壬申、武宮に朝す。初め、麗姬の亂に、群公子を畜ふ無からんことを詛ふ。是より晉に公族無し。成公即位するに及び、乃ち卿の適子を宦して、之が為に田を為して、以って公族と為す。又其の餘子を宦して、亦た餘子と為す。其の庶子を公行と為す。晉是に於いて公族・餘子・公行有り。趙盾括を以って公族と為さんことを請ひて曰く、「君姬氏の愛子なり。君姬氏微(な)かりせば、則ち臣は狄人なり」と。公之を許す。冬、趙盾旄車の族と為り、屏季をして其の故族を以って公族大夫と為らしむ。
現代語訳
太史の董狐はその記録を朝廷で示した。宣子(趙盾)は「そうではない(私は殺していない)」と言った。董狐は答えた。「あなたは正卿(首席の大臣)でありながら、逃げても国境を越えず、戻っても君を殺した賊を討たなかった。あなたでなくて誰が弑君の責めを負うのですか」。宣子は言った。「ああ、『わが思いのために、自らこの憂いを招いた』という詩は、私のことを言っているのだな」。孔子は言った。「董狐は昔の優れた史官である。記録の法に従って隠すことをしなかった。趙宣子は昔の優れた大夫である。記録の法のために悪名を引き受けた。惜しいことだ。国境を越えていれば、責めを免れたであろうに」。宣子は趙穿に命じて公子黑臀(文公の子)を周から迎えさせ、君に立てた(成公)。壬申の日、成公は曲沃の武公の廟に参拝した。これより前、驪姫(麗姫)の乱のとき、晋では「公子たちを国内に養わない」と神に誓った。そのため晋には公族(君主の近親の一族)がいなくなった。成公が即位すると、卿の嫡子に官職を与え、田地を与えて公族とした。さらに卿の嫡子以外の子にも官職を与えて「餘子」とし、妾腹の子を「公行」とした。こうして晋には公族・餘子・公行の三つの官ができた。趙盾は、異母弟の趙括を公族にしてほしいと願い出て言った。「括は君姬氏(趙姬、文公の娘で趙衰の正妻)の愛する子です。君姬氏がいなければ、私は狄人の子のままでした」。成公はこれを許した。冬、趙盾は自らは旄車の族(餘子の長)となり、屏季(趙括)に趙氏本家の一族を率いさせて公族大夫とした。
解説
この章句が説くこと
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『韓非子』難言第三微を述べ約を説きて、徑省にして飾らざれば
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『春秋左氏伝』昭公十八年 許を析に遷す邊人恐懼して、敢へて告げずんばあらず」と。子產對へて曰く、「吾子の言の若くんば、敝邑の災は、君の憂ひなり。敝邑政を失ひて、天之に災を降す。又讒慝の之を間謀して、以て貪人を啟き、荐(しき)りに敝邑の不利を為して、以て君の憂ひを重ねんことを懼る。幸ひにして亡びずんば、猶ほ說く可きなり。不幸にして亡びなば、君之を憂ふと雖も、亦た及ぶ無し。鄭他竟有るも、望走は晉に在り。既に晉に事ふ、其れ敢へて二心有らんや」と。楚の左尹王子勝楚子に言ひて曰く、「許の鄭に於けるは、仇敵なり。而るに楚の地に居りて、以て鄭に禮あらず。晉・鄭方に睦まじ。鄭若し許を伐ちて、晉之を助けば、楚地を喪はん。君盍ぞ許を遷さざる。許は楚に專らならず。鄭は方に令政有り。許は曰く、『余が舊國なり』と。鄭は曰く、『余が俘邑なり』と。葉は楚國に在りて、方城の外の蔽なり。土は易ふ可からず、國は小とす可からず、許は俘とす可からず、讎は啟く可からず。君其れ之を圖れ」と。楚子說ぶ。冬、楚子王子勝をして許を析に遷さしむ。實に白羽なり。
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