春秋左氏伝 / 宣公二年 翳桑の餓人
秋,九月,晉侯飲趙盾酒,伏甲將攻之,其右提彌明知之,趨登曰:「臣侍君宴,過三爵,非禮也。」遂扶以下。公嗾夫獒焉。明搏而殺之。盾曰:「棄人用犬,雖猛何為。」鬥且出。提彌明死之。初,宣子田于首山,舍于翳桑,見靈輒餓,問其病,曰:「不食三日矣。」食之,舍其半,問之,曰:「宦三年矣,未知母之存否,今近焉,請以遺之。」使盡之,而為之簞食與肉,寘諸橐以與之。既而與為公介,倒戟以禦公徒,而免之。問何故,對曰:「翳桑之餓人也。」問其名居,不告而退。遂自亡也。乙丑,趙穿攻靈公于桃園。宣子未出山而復。大史書曰:「趙盾弒其君。」
新字:秋,九月,晋侯飲趙盾酒,伏甲将攻之,其右提弥明知之,趨登曰:「臣侍君宴,過三爵,非礼也。」遂扶以下。公嗾夫獒焉。明搏而殺之。盾曰:「棄人用犬,雖猛何為。」鬥且出。提弥明死之。初,宣子田于首山,舎于翳桑,見霊輒餓,問其病,曰:「不食三日矣。」食之,舎其半,問之,曰:「宦三年矣,未知母之存否,今近焉,請以遺之。」使尽之,而為之箪食与肉,寘諸橐以与之。既而与為公介,倒戟以禦公徒,而免之。問何故,対曰:「翳桑之餓人也。」問其名居,不告而退。遂自亡也。乙丑,趙穿攻霊公于桃園。宣子未出山而復。大史書曰:「趙盾弒其君。」
書き下し
秋、九月、晉侯趙盾に酒を飲ましめ、甲を伏せて將に之を攻めんとす。其の右提彌明之を知り、趨り登りて曰く、「臣君の宴に侍して、三爵を過ぐるは、禮に非ざるなり」と。遂に扶けて以って下る。公夫(か)の獒(がう)を嗾(けしか)く。明搏ちて之を殺す。盾曰く、「人を棄てて犬を用ゐる、猛しと雖も何をか為さん」と。鬥ひ且つ出づ。提彌明之に死す。初め、宣子首山に田し、翳桑に舍り、靈輒の餓うるを見る。其の病を問ふ。曰く、「食はざること三日なり」と。之に食はしむ。其の半ばを舍く。之を問ふ。曰く、「宦すること三年なり、未だ母の存否を知らず。今近し、請ふ以って之に遺(おく)らん」と。之を盡くさしめて、之が為に簞食と肉とを為(つく)り、諸を橐(ふくろ)に寘きて以って之に與ふ。既にして與(あづか)りて公の介と為る。戟を倒にして以って公の徒を禦ぎて、之を免れしむ。何の故かを問ふ。對へて曰く、「翳桑の餓人なり」と。其の名居を問ふ。告げずして退く。遂に自ら亡ぐるなり。乙丑、趙穿靈公を桃園に攻む。宣子未だ山を出でずして復る。大史書して曰く、「趙盾其の君を弒す」と。
現代語訳
秋九月、晋侯(霊公)は趙盾(ちょうとん、晋の執政、趙宣子)に酒をふるまい、甲冑の兵を伏せておいて討とうとした。趙盾の車右の提彌明はそれに気づき、小走りに堂に上がって言った。「臣下が主君の宴に侍して、三杯を超えて飲むのは礼に外れます」。そのまま趙盾を助け起こして堂を下りた。霊公は猛犬をけしかけた。提彌明は素手で打ち合ってその犬を殺した。趙盾は言った。「人を捨てて犬を用いる。猛々しくても何の役に立とう」。二人は戦いながら宮門を出たが、提彌明はそこで討ち死にした。これより前、宣子(趙盾)は首山で狩りをし、翳桑に宿ったとき、靈輒が飢えているのを見かけた。どうしたのかと尋ねると、「三日食べていません」と言う。食べ物を与えると、半分を残した。わけを尋ねると、「宮仕えに出て三年になりますが、母が生きているかどうかも分かりません。いま家の近くまで来ましたので、これを母に届けたいのです」と答えた。趙盾は食べ物を全部食べさせ、別に竹の器に入れた飯と肉を用意して袋に入れ、彼に持たせてやった。その後、靈輒は霊公の甲士の一人となっていた。この日、彼は戟を逆さに構えて霊公の兵を防ぎ、趙盾を逃がした。趙盾がなぜ助けるのかと尋ねると、「翳桑の飢えた者です」と答えた。名と住まいを尋ねたが、告げずに立ち去り、そのまま自ら姿を消した。乙丑の日、趙穿(趙盾の一族)が霊公を桃園で襲って殺した。趙盾はまだ国境の山を出ないうちに引き返してきた。太史(記録官、董狐)は「趙盾、其の君を弒す」と書いた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 晋世家晋趙盾をして車八百乗を以て周の乱を平らげて匡王を立てしむ。是の年、楚の荘王初めて即位す。十二年、斉人其の君懿公を弑す。十四年、霊公壮にして侈り、厚く斂めて以て牆に彫る。台上より人を弾き、其の丸を避くるを観る。宰夫熊蹯を胹(に)て熟せず。霊公怒り、宰夫を殺し、婦人をして其の尸を持ちて出でて之を棄てしむ。朝を過ぐ。趙盾・隨会前に数々諫むるも、聴かず。已にして又死人の手を見、二人前みて諫む。隨会先づ諫むるも、聴かず。霊公之を患ひ、鉏麑をして趙盾を刺さしむ。盾の閨門開き、居処節あり。鉏麑退きて嘆じて曰く、「忠臣を殺すも、君命を棄つるも、罪は一なり」と。遂に樹に触れて死す。初め、盾常に首山に田し、桑下に餓人有るを見る。餓人は、示瞇明なり。盾之に食を与ふ。其の半ばを食らふ。其の故を問ふ。曰く、「宦すること三年、未だ母の存するや不やを知らず。願はくは母に遺らん」と。盾之を義とし、益々之に飯肉を与ふ。已にして晋の宰夫と為る。趙盾復た知らざるなり。九月、晋の霊公趙盾に酒を飲ましめ、甲を伏せて将に盾を攻めんとす。公の宰示瞇明之を知り、盾酔ひて起つこと能はざるを恐れ、進みて曰く、「君臣に賜ふに、觴三たび行はば以て罷むべし」と。以て趙盾を去らしめ、先んぜしめて、難に及ぶこと毋からしめんと欲す。盾既に去る。霊公の伏士未だ会せず。先づ齧狗の敖と名づくるを縦つ。明盾の為に狗を搏ち殺す。盾曰く、「人を棄てて狗を用ふ。猛しと雖も何をか為さん」と。然れども明の陰徳を為すを知らず。已にして霊公伏士を縦ちて出でて趙盾を逐はしむ。示瞇明反って霊公の伏士を撃つ。伏士進むこと能はず。而して竟に盾を脱す。盾其の故を問ふ。曰く、「我は桑下の餓人なり」と。其の名を問ふも、告げず。明も亦た因りて亡げ去る。盾遂に奔るも、未だ晋の境を出でず。乙丑、盾の昆弟の将軍趙穿霊公を桃園に襲殺して趙盾を迎ふ。趙盾素より貴く、民の和を得たり。霊公は少くして侈り、民附かず。故に弑を為すこと易し。盾位に復す。
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呂氏春秋・報更②昔、趙宣孟、將に上り絳に之かんとし、骫桑の下に、餓人の臥して起つこと能わざる者有るを見る。宣孟、車を止め、之が為に食を下し、蠲めて之を餔せしむ。再咽して後能く視る。宣孟之に問いて曰く、「女何為れぞ餓えたること是の若し。」對えて曰く、「臣、絳に宦し、歸らんとして糧絶ゆ。行乞を羞じ自ら取ることを憎む。故に此に至る。」宣孟、脯二朐を與う。拜受すれども敢て食わず。其の故を問う。對えて曰く、「臣に老母有り。將に以て之に遺らんとす。」宣孟曰く、「斯く之を食え。吾更に女に與えん。」乃ち復た之に脯二束と錢百とを賜い、而して遂に之を去る。處ること二年、晉の靈公、宣孟を殺さんと欲して、士を房中に伏し、以て之を待ち、因りて酒を宣孟に發す。宣孟之を知り、中飲にして出づ。靈公、房中の士をして疾く追いて之を殺さしめんとす。一人追うこと疾く、先づ宣孟に及び、之に面して曰く、「嘻、君轝せよ。吾請う君が為に反りて死せん。」宣孟曰く、「而の名は誰とか為す。」反り走るもの對えて曰く、「何ぞ名を以てすることを為さん。臣は骫桑下の餓人なり。」還り鬭いて死し、宣孟遂に活きたり。此れ書の所謂、幾を德て小とする無き者なり。宣孟、一士に徳て猶ほ其の身を活かす、而るを況んや萬人に徳るをや。故に詩に曰く、「赳赳たる武夫は、公侯の干城なり」、「濟濟たる多士、文王以て寧し」。人主胡ぞ以て士を哀れむことを務めざる可けんや。士は其れ知り難し。唯だ博きをのみ之れ可と為す。博ければ則ち遁るる所無し。
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史記 趙世家趙衰、重耳に従ひて出亡すること凡そ十九年、国に反ることを得たり。重耳晋の文公と為り、趙衰原の大夫と為り、原に居り、国政に任ず。文公の国に反り及び霸たる所以は、多く趙衰の計策なり。語は晋の事の中に在り。趙衰既に晋に反り、晋の妻固く翟の妻を迎へんことを要め、而して其の子盾を以て適嗣と為し、晋の妻の三子皆下りて之に事ふ。晋の襄公の六年にして趙衰卒し、諡して成季と為す。趙盾、成季に代はりて国政に任ずること二年にして晋の襄公卒す。太子夷皋年少し。盾、国の多難なるが為に、襄公の弟雍を立てんと欲す。雍時に秦に在り。使をして之を迎へしむ。太子の母日夜啼泣し、頓首して趙盾に謂ひて曰く、「先君何の罪かある。其の適子を釈きて更に君を求むるか」と。趙盾之を患へ、其の宗と大夫との襲ひて之を誅せんことを恐れ、乃ち遂に太子を立つ、是を霊公と為す。兵を発して襄公の弟を秦に迎ふる所の者を距ぐ。霊公既に立ち、趙盾益々国政を専らにす。霊公立ちて十四年、益々驕る。趙盾驟々諫むれども、霊公聴かず。熊蹯を食らふに及び、胹て熟せず、宰人を殺し、其の尸を持ちて出づ。趙盾之を見る。霊公此に由りて懼れ、盾を殺さんと欲す。盾素より仁にして人を愛す。嘗て食はせし所の桑下の餓人、反りて捍ぎて盾を救ふ。盾以て亡ぐるを得たり。未だ境を出でずして、趙穿霊公を弑して襄公の弟黒臀を立つ、是を成公と為す。趙盾復た反りて国政に任ず。君子盾を譏る、「正卿と為りて、亡げて境を出でず、反りて賊を討たず」と。故に太史書して曰く「趙盾其の君を弑す」と。晋の景公の時にして趙盾卒し、諡して宣孟と為す。子朔嗣ぐ。趙朔、晋の景公の三年、朔晋の将として下軍に将として鄭を救ひ、楚の荘王と河上に戦ふ。朔、晋の成公の姊を娶りて夫人と為す。晋の景公の三年、大夫屠岸賈、趙氏を誅せんと欲す。初め、趙盾在りし時、夢に叔帯の要を持ちて哭するを見る。甚だ悲し。已にして笑ひ、手を拊ちて且つ歌ふ。
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『春秋左氏伝』宣公二年 過ちて改むる……晉の靈公君たらず。斂を厚くして以って牆を彫り、臺上より人を彈じて、其の丸を辟くるを觀る。宰夫熊蹯を胹(に)て熟せず、之を殺し、諸を畚(ふご)に寘き、婦人をして載せて朝を過ぎしむ。趙盾・士季、其の手を見て、其の故を問ひて、之を患ふ。將に諫めんとす。士季曰く、「諫めて入らずんば、則ち之に繼ぐ莫きなり。會請ふ先んぜん、入らずんば、則ち子之に繼げ」と。三たび進みて溜に及び、而る後に之を視て曰く、「吾過つ所を知れり、將に之を改めん」と。稽首して對へて曰く、「人誰か過ち無からん。過ちて能く改むる、善之より大なるは莫し。詩に曰く、『初め有らざる靡し、克く終はり有るは鮮し』と。夫れ是の如くんば、則ち能く過ちを補ふ者鮮し。君能く終はり有らば、則ち社稷の固めなり、豈に惟だ群臣のみ之に賴らんや。又曰く、『袞職闕くる有り、惟だ仲山甫のみ之を補ふ』と。能く過ちを補ふなり。君能く過ちを補はば、袞廢れざらん」と。猶ほ改めず。……
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呂氏春秋・過理②晉の靈公は無道なり。上從り人に彈きて其の丸を避くるを觀、宰人をして熊蹯を臑しめて熟せず、之を殺して、婦人をして載せて朝を過ぎしめ、以て威を示すは、不適なり。趙盾驟々諫むれども聽かず、公之を惡み、乃ち沮麛を使う。沮麛、之を見、賊するに忍びず。曰く、「恭敬を忘れざるは、民の主なり。民の主を賊するは不忠なり。君の命を棄つるは不信なり、此に一あるは、死するに若かず。」乃ち廷の槐に觸して死す。
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史記 晋世家趙盾曰く、「辰嬴は賤しく、班は九人の下に在り。其の子何の震(おそ)れか之れ有らん。且つ二君の嬖と為るは、淫なり。先君の子と為りて、大を求むること能はずして出でて小国に在るは、僻なり。母淫にして子僻なれば、威無し。陳は小にして遠ければ、援け無し。将た何ぞ可ならんや」と。士会をして秦に如きて公子雍を迎へしむ。賈季も亦た人をして公子楽を陳に召さしむ。趙盾賈季を廃す。其の陽処父を殺せしを以てなり。十月、襄公を葬る。十一月、賈季翟に奔る。是の歳、秦の繆公も亦た卒す。霊公の元年四月、秦の康公曰く、「昔文公の入るや衛無し。故に呂・郤の患有り」と。乃ち多く公子雍に衛を与ふ。太子の母繆嬴日夜太子を抱きて以て朝に号泣して曰く、「先君何の罪かある。其の嗣も亦た何の罪かある。適を舎てて外に君を求む。将た安んぞ此を置かん」と。朝を出づれば、則ち抱きて以て趙盾の所に適き、頓首して曰く、「先君此の子を奉じて之を子に属して曰く、『此の子材あらば、吾其の賜を受けん。材あらずんば、吾子を怨まん』と。今君卒し、言猶ほ耳に在り。而して之を棄つるは、若何」と。趙盾と諸大夫と皆繆嬴を患へ、且つ誅を畏れ、乃ち迎ふる所に背きて太子夷皋を立つ。是を霊公と為す。兵を発して以て秦の公子雍を送る者を距ぐ。趙盾将と為り、往きて秦を撃ち、之を令狐に敗る。先蔑・隨会亡げて秦に奔る。秋、斉・宋・衛・鄭・曹・許の君皆趙盾に会し、扈に盟ふ。霊公初めて立つの故を以てなり。四年、秦を伐ち、少梁を取る。秦も亦た晋の郩を取る。六年、秦の康公晋を伐ち、羈馬を取る。晋侯怒り、趙盾・趙穿・郤缺をして秦を撃たしめ、大いに河曲に戦ふ。趙穿最も功有り。七年、晋の六卿隨会の秦に在りて、常に晋の乱を為さんことを患へ、乃ち詳りて魏寿余をして晋に反きて秦に降らしむ。秦隨会をして魏に之かしむ。因りて会を執へて以て晋に帰る。八年、周の頃王崩ず。公卿権を争ふ。故に赴せず。
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