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春秋左氏伝 / 文公十六年 蕩意諸、君に殉ず

宋公子鮑禮於國人,宋饑,竭其粟而貸之,年自七十以上,無不饋詒也,時加羞珍異,無日不數於六卿之門,國之材人,無不事也,親自桓以下,無不恤也,公子鮑美而豔,襄夫人欲通之,而不可,夫人助之施,昭公無道,國人奉公子鮑以因夫人,於是華元為右師,公孫友為左師,華耦為司馬,鱗鱹為司徒,蕩意諸為司城,公子朝為司寇,初,司城蕩卒,公孫壽辭司城,請使意諸為之,既而告人曰,君無道,吾官近,懼及焉,棄官則族無所庇,子,身之貳也,姑紓死焉,雖亡子,猶不亡族,既,夫人將使公田孟諸而殺之,公知之,盡以寶行,蕩意諸曰,盍適諸侯,公曰,不能其大夫,至于君祖母,以及國人,諸侯誰納我,且既為人君,而又為人臣,不如死,盡以其寶賜左右,以使行,夫人使謂司城去公,對曰,臣之而逃其難,若後君何?冬,十一月,甲寅,宋昭公將田孟諸,未至,夫人王姬使帥甸攻而殺之,蕩意諸死之,書曰,宋人弒其君杵臼,君無道也,文公即位,使母弟須為司城,華耦卒,而使蕩虺為司馬。

新字:宋公子鮑礼於国人,宋饑,竭其粟而貸之,年自七十以上,無不饋詒也,時加羞珍異,無日不数於六卿之門,国之材人,無不事也,親自桓以下,無不恤也,公子鮑美而艶,襄夫人欲通之,而不可,夫人助之施,昭公無道,国人奉公子鮑以因夫人,於是華元為右師,公孫友為左師,華耦為司馬,鱗鱹為司徒,蕩意諸為司城,公子朝為司寇,初,司城蕩卒,公孫寿辞司城,請使意諸為之,既而告人曰,君無道,吾官近,懼及焉,棄官則族無所庇,子,身之貳也,姑紓死焉,雖亡子,猶不亡族,既,夫人将使公田孟諸而殺之,公知之,尽以宝行,蕩意諸曰,盍適諸侯,公曰,不能其大夫,至于君祖母,以及国人,諸侯誰納我,且既為人君,而又為人臣,不如死,尽以其宝賜左右,以使行,夫人使謂司城去公,対曰,臣之而逃其難,若後君何?冬,十一月,甲寅,宋昭公将田孟諸,未至,夫人王姫使帥甸攻而殺之,蕩意諸死之,書曰,宋人弒其君杵臼,君無道也,文公即位,使母弟須為司城,華耦卒,而使蕩虺為司馬。

書き下し

宋の公子鮑國人に禮す。宋饑う、其の粟を竭くして之に貸す。年七十より以上は、饋詒せざる無し。時に羞珍異を加ふ。日として六卿の門に數々せざる無し。國の材人、事へざる無し。親は桓より以下、恤れまざる無し。公子鮑美にして豔なり、襄夫人之に通ぜんと欲す、而も可(き)かず。夫人之が施しを助く。昭公無道なり、國人公子鮑を奉じて以って夫人に因る。是に於いて華元右師と為り、公孫友左師と為り、華耦司馬と為り、鱗鱹司徒と為り、蕩意諸司城と為り、公子朝司寇と為る。初め、司城蕩卒す。公孫壽司城を辭し、意諸をして之と為さしめんことを請ふ。既にして人に告げて曰く、「君無道なり、吾が官近し、及ばんことを懼る。官を棄つれば則ち族庇ふ所無し。子は、身の貳なり。姑く死を紓(ゆる)べん。子を亡ふと雖も、猶ほ族を亡はず」と。既にして、夫人將に公をして孟諸に田せしめて之を殺さんとす。公之を知り、盡く寶を以って行く。蕩意諸曰く、「盍ぞ諸侯に適かざる」と。公曰く、「其の大夫に能はず、君祖母に至り、以って國人に及ぶ。諸侯誰か我を納れん。且つ既に人の君と為りて、又人の臣と為るは、死するに如かず」と。盡く其の寶を以って左右に賜ひ、以って行らしむ。夫人司城をして公を去らしめんとす。對へて曰く、「之に臣として其の難を逃れば、後の君を若何せん」と。冬、十一月、甲寅、宋の昭公將に孟諸に田せんとして、未だ至らず。夫人王姬帥甸をして攻めて之を殺さしむ。蕩意諸之に死す。書に曰く、「宋人其の君杵臼を弒す」と、君無道なればなり。文公位に即き、母弟須をして司城と為さしむ。華耦卒して、蕩虺をして司馬と為さしむ。

現代語訳

宋の公子鮑は国人に礼を尽くした。宋に飢饉があると、自分の穀物を出し尽くして人々に貸し与えた。七十歳以上の者には、残らず食べ物を贈った。時にはさらに珍しいご馳走も添えた。六卿の家の門を訪れない日はなかった。国の才能ある人物には、誰にでも礼を尽くして仕えた。親族については、桓公以下の子孫で、面倒を見ない者はいなかった。公子鮑は美しく艶やかな男であったので、襄夫人(昭公の祖母、周の襄王の姉)は彼と通じようとしたが、公子鮑は応じなかった。それでも夫人は彼の施しを援助した。昭公は無道であったので、国人は公子鮑を擁立しようとして、夫人を頼った。このとき華元が右師、公孫友が左師、華耦が司馬、鱗鱹が司徒、蕩意諸が司城、公子朝が司寇であった。これより前、司城の蕩(公孫寿の父)が亡くなったとき、公孫寿は司城の職を辞退し、子の意諸を就けてほしいと願い出た。その後、人にこう語った。「君は無道だ。司城の官は君の近くにあるので、災いが我が身に及ぶのが恐ろしい。しかし官を捨てれば一族を守る者がいなくなる。子は我が身の分身である。ひとまず自分の死を先に延ばそう。たとえ子を失っても、一族を失うことはない」。やがて夫人は、昭公に孟諸で狩りをさせ、その機に殺そうとした。昭公はそれを知り、宝物をすべて持って出発した。蕩意諸が言った。「どうして諸侯のもとへ亡命なさらないのですか」。昭公は言った。「私は自分の大夫たちとうまくいかず、君祖母(襄夫人)とも、国人ともうまくいかなかった。どこの諸侯が私を受け入れてくれよう。それに、一度人の君となった者が、また人の臣となるくらいなら、死んだほうがましだ」。そして宝物をすべて左右の者に与えて、去らせた。夫人は人を遣わして、司城(蕩意諸)に昭公のもとを去るよう言わせた。蕩意諸は答えた。「臣として仕えながらその難から逃げれば、この先どの君にどう仕えられましょう」。冬十一月甲寅、宋の昭公は孟諸で狩りをしようとして、まだ着かないうちに、夫人の王姫が帥甸(狩場を司る官)に命じて攻め殺させた。蕩意諸は昭公に殉じて死んだ。『春秋』に「宋人其の君杵臼を弑す」と、弑した者の名を書かず君の名を記したのは、君が無道であったからである。文公(公子鮑)が即位し、同母弟の須を司城とした。華耦が亡くなると、蕩虺を司馬とした。

解説

宋の昭公が祖母の襄夫人に殺され、公子鮑が文公として立つまでの顛末である。公子鮑の施しは徹底していた。飢饉に穀物を出し尽くし、七十歳以上の老人に食を贈り、六卿の門を毎日訪ね、国の人材に仕え、親族の面倒を見る。国人の支持は、こうして積み上げられていった。無道な昭公の側には、もはや頼れる者がいない。亡命を勧められた昭公は、大夫にも祖母にも国人にも見放された自分を受け入れる国はないと言い、宝物を左右に分け与えて去らせた。ここで対照をなすのが蕩氏の父子である。父の公孫寿は、無道な君の近くにいては危ないと見て、自分は職を退き子を就けた。子を失っても一族は残る、という冷徹な計算である。子の蕩意諸は、夫人から去れと言われても「之に臣として其の難を逃れば、後の君を若何せん」と答え、君に殉じた。人望を積み上げた者と失った者、身を守った者と職に殉じた者。その差がどこで生まれたのかを考えさせる。

この章句が説くこと

人望施し殉職保身無道書法

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