史記 / 楚世家
君陳、蔡,方城外屬焉。苛慝不作,盜賊伏隱,私欲不違,民無怨心。先神命之,國民信之。羋姓有亂,必季實立,楚之常也。子比之官,則右尹也;數其貴寵,則庶子也;以神所命,則又遠之;民無懷焉,將何以立?」宣子曰:「齊桓、晉文不亦是乎?」對曰:「齊桓,衞姬之子也,有寵於釐公。有鮑叔牙、賓須無、隰朋以爲輔,有莒、衞以爲外主,有髙、國以爲内主。從善如流,施惠不倦。有國,不亦宜乎?昔我文公,狐季姬之子也,有寵於獻公。好學不倦。生十七年,有士五人,有先大夫子餘、子犯以爲腹心,有魏犫、賈佗以爲股肱,有齊、宋、秦、楚以爲外主,有欒、郤、狐、先以爲内主。亡十九年,守志彌篤。惠、懷棄民,民從而與之。故文公有國,不亦宜乎?子比無施於民,無援於外,去晉,晉不送;歸楚,楚不迎。何以有國!」子比果不終焉,卒立者棄疾,如叔向言也。平王二年,使費無忌如秦爲太子建取婦。婦好,來,未至,無忌先歸,説平王曰:「秦女好,可自娶,爲太子更求。」平王聽之,卒自娶秦女,生熊珍。更爲太子娶。是時伍奢爲太子太傅,無忌爲少傅。無忌無寵於太子,常讒惡太子建。建時年十五矣,其母蔡女也,無寵於王,王稍益疎外建也。六年,使太子建居城父,守邊。
新字:君陳、蔡,方城外属焉。苛慝不作,盗賊伏隠,私欲不違,民無怨心。先神命之,国民信之。羋姓有乱,必季実立,楚之常也。子比之官,則右尹也;数其貴寵,則庶子也;以神所命,則又遠之;民無懐焉,将何以立?」宣子曰:「斉桓、晋文不亦是乎?」対曰:「斉桓,衛姫之子也,有寵於釐公。有鮑叔牙、賓須無、隰朋以為輔,有莒、衛以為外主,有高、国以為内主。従善如流,施恵不倦。有国,不亦宜乎?昔我文公,狐季姫之子也,有寵於献公。好学不倦。生十七年,有士五人,有先大夫子余、子犯以為腹心,有魏犫、賈佗以為股肱,有斉、宋、秦、楚以為外主,有欒、郤、狐、先以為内主。亡十九年,守志弥篤。恵、懐棄民,民従而与之。故文公有国,不亦宜乎?子比無施於民,無援於外,去晋,晋不送;帰楚,楚不迎。何以有国!」子比果不終焉,卒立者棄疾,如叔向言也。平王二年,使費無忌如秦為太子建取婦。婦好,来,未至,無忌先帰,説平王曰:「秦女好,可自娶,為太子更求。」平王聴之,卒自娶秦女,生熊珍。更為太子娶。是時伍奢為太子太傅,無忌為少傅。無忌無寵於太子,常讒悪太子建。建時年十五矣,其母蔡女也,無寵於王,王稍益疎外建也。六年,使太子建居城父,守辺。
書き下し
陳・蔡に君として、方城の外焉に属す。苛慝作らず、盗賊伏隠し、私欲違はず、民に怨心無し。先神之に命じ、国民之を信ず。羋姓に乱有らば、必ず季実に立つは、楚の常なり。子比の官は、則ち右尹なり。其の貴寵を数ふれば、則ち庶子なり。神の命ずる所を以てすれば、則ち又之に遠し。民に懐ふこと無し。将た何を以て立たん」と。宣子曰く、「斉の桓・晋の文も亦た是ならずや」と。対へて曰く、「斉の桓は、衛姫の子なり。釐公に寵有り。鮑叔牙・賓須無・隰朋有りて以て輔と為し、莒・衛有りて以て外主と為し、高・国有りて以て内主と為す。善に従ふこと流るるが如く、恵みを施して倦まず。国を有つこと、亦た宜ならずや。昔我が文公は、狐季姫の子なり。献公に寵有り。学を好みて倦まず。生まれて十七年にして、士五人有り。先大夫子余・子犯有りて以て腹心と為し、魏犫・賈佗有りて以て股肱と為し、斉・宋・秦・楚有りて以て外主と為し、欒・郤・狐・先有りて以て内主と為す。亡ぐること十九年、志を守ること彌々篤し。恵・懐民を棄て、民従ひて之に与す。故に文公国を有つこと、亦た宜ならずや。子比は民に施すこと無く、外に援け無し。晋を去るも、晋送らず。楚に帰るも、楚迎へず。何を以て国を有たん」と。子比果たして終へず。卒に立つ者は棄疾なり。叔向の言の如し。平王の二年、費無忌をして秦に如きて太子建の為に婦を取らしむ。婦好し。来たりて、未だ至らざるに、無忌先に帰り、平王に説きて曰く、「秦の女好し。自ら娶るべし。太子の為に更に求めよ」と。平王之を聴き、卒に自ら秦の女を娶り、熊珍を生む。更に太子の為に娶る。是の時伍奢太子の太傅為り、無忌少傅為り。無忌太子に寵無く、常に太子建を讒悪す。建時に年十五なり。其の母は蔡の女なり。王に寵無く、王稍く益々建を疎外す。六年、太子建をして城父に居り、辺を守らしむ。
現代語訳
棄疾は陳と蔡の君となり、方城の外の地域も彼に服属している。むごい政治や悪事は起こらず、盗賊は身を潜め、私欲を満たしても道に背かず、民には恨みの心がない。祖先の神が彼を後継者と定め、国の民も彼を信頼している。羋姓の楚に乱が起これば、必ず末の子が立つのが楚のならわしだ。子比の官職はといえば右尹にすぎず、身分や寵愛からいえば庶子であり、神の選びからいえば遠く離れていた。民も彼を慕っていない。どうして王に立てようか」。宣子は言った。「斉の桓公や晋の文公も、同じような立場ではなかったか」。叔向は答えた。「斉の桓公は衛姫の子で、父の釐公に愛されていた。鮑叔牙・賓須無・隰朋が補佐役となり、莒と衛が外からの後ろ盾となり、高氏と国氏が内からの後ろ盾となった。善いことには水が流れるように従い、恵みを施して倦むことがなかった。国を手にしたのも当然ではないか。昔、わが文公は狐季姫の子で、献公に愛されていた。学問を好んで倦むことがなかった。十七歳で五人の賢士を得ていた。先の大夫の子余(趙衰)と子犯(狐偃)を腹心とし、魏犫と賈佗を手足とし、斉・宋・秦・楚が外の後ろ盾となり、欒・郤・狐・先の各氏が内の後ろ盾となった。十九年の亡命の間も、志を守る心はますます固くなった。恵公と懐公は民を見捨てたので、民は文公に従って味方した。だから文公が国を手にしたのも当然ではないか。子比は民に何の恩恵も施さず、外にも助けがない。晋を去るときにも晋は見送らず、楚に帰っても楚は迎えなかった。どうして国を手にできようか」。はたして子比は最後まで全うできず、ついに立ったのは棄疾であった。叔向の言ったとおりである。平王の二年、費無忌を秦に送り、太子建のために妻を迎えさせた。その女性は美しかった。まだ楚に着かないうちに、費無忌は先に帰って平王に説いた。「秦の女は美しい。王ご自身が娶られるがよい。太子にはあらためて別の妻を探せばよい」。平王はこれを聞き入れ、ついに自ら秦の女を娶り、熊珍が生まれた。太子にはあらためて別の妻を迎えた。このとき伍奢が太子の太傅(教育係の長)で、費無忌が少傅(副教育係)であった。費無忌は太子に好かれていなかったので、常に太子建を中傷した。建はこのとき十五歳であった。建の母は蔡の女性で、王に寵愛されておらず、王はしだいに建を遠ざけるようになった。六年、平王は太子建を城父に住まわせ、国境を守らせた。
解説
関連する章句
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史記 楚世家衆怒は水火の如く、救ふべからざるなり」と。初王及び子皙遂に自殺す。丙辰、棄疾即位して王と為り、名を熊居と改む。是を平王と為す。平王詐りを以て両王を弑して自立す。国人及び諸侯の之に叛かんことを恐れ、乃ち恵みを百姓に施す。陳・蔡の地を復して其の後を立つること故の如くし、鄭の侵地を帰す。国中を存恤し、政教を修む。呉楚の乱るるの故を以て、五率を獲て以て帰る。平王観従に謂ふ、「爾の欲する所を恣にせよ」と。卜尹為らんことを欲す。王之を許す。初め、共王に寵子五人有り。適の立つもの無し。乃ち群神を望祭し、神に請ひて之を決せしめ、社稷を主らしめんとす。而して陰かに巴姫と璧を室内に埋め、五公子を召して斎して入らしむ。康王之を跨ぎ、霊王は肘を之に加へ、子比・子皙は皆之に遠し。平王幼く、抱かれて其の上にて拝し、紐を圧す。故に康王は長を以て立ち、其の子に至りて之を失ふ。囲は霊王と為り、身に及びて弑せらる。子比は王為ること十余日、子皙は立つを得ず、又倶に誅せらる。四子皆絶えて後無し。唯だ独り棄疾のみ後に立ち、平王と為り、竟に楚の祀を続ぐ。其の神符の如し。初め、子比晋より帰るや、韓宣子叔向に問ひて曰く、「子比其れ済らんか」と。対へて曰く、「就らず」と。宣子曰く、「悪を同じくする相求むること、市賈の如し。何為れぞ就らざる」と。対へて曰く、「好を同じくするもの無し。誰と悪を同じくせん。国を取るに五難有り。寵有りて人無き、一なり。人有りて主無き、二なり。主有りて謀無き、三なり。謀有りて民無き、四なり。民有りて徳無き、五なり。子比晋に在ること十三年、晋・楚の従、通ずる者を聞かず。人無しと謂ふべし。族尽き親叛く。主無しと謂ふべし。釁(すき)無くして動く。謀無しと謂ふべし。羈と為りて世を終ふ。民無しと謂ふべし。亡げて愛徴無し。徳無しと謂ふべし。王虐にして忌まず。子比五難を渉りて以て君を弑す。誰か能く之を済さん。楚国を有つ者は、其れ棄疾か。
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史記 楚世家無忌又日夜太子建を王に讒して曰く、「無忌秦の女を入れしより、太子怨み、亦た王に望むこと無き能はず。王少しく自ら備へよ。且つ太子城父に居り、兵を擅にし、外に諸侯と交はり、且に入らんと欲す」と。平王其の傅伍奢を召して之を責む。伍奢無忌の讒を知り、乃ち曰く、「王奈何ぞ小臣を以て骨肉を疎んずる」と。無忌曰く、「今制せずんば、後に悔いん」と。是に於て王遂に伍奢を囚ふ。乃ち司馬奮揚をして太子建を召さしめ、之を誅せんと欲す。太子之を聞き、亡げて宋に奔る。無忌曰く、「伍奢に二子有り。殺さざる者は楚国の患と為らん。盍ぞ其の父を免すを以て之を召さざる。必ず至らん」と。是に於て王使ひをして奢に謂はしむ、「能く二子を致さば則ち生きん。能はずんば将に死せん」と。奢曰く、「尚は至らん。胥は至らず」と。王曰く、「何ぞや」と。奢曰く、「尚の人と為りは、廉にして、節に死し、慈孝にして仁なり。召されて父を免すと聞かば、必ず至りて、其の死を顧みず。胥の人と為りは、智にして謀を好み、勇にして功を矜る。来たらば必ず死するを知る。必ず来たらず。然れども楚国の憂ひと為る者は必ず此の子ならん」と。是に於て王人をして之を召さしめて曰く、「来たれ。吾爾の父を免さん」と。伍尚伍胥に謂ひて曰く、「父免さるると聞きて奔ること莫きは、不孝なり。父戮せられて報ゆること莫きは、無謀なり。能を度りて事に任ずるは、知なり。子其れ行け。我其れ帰りて死せん」と。伍尚遂に帰る。伍胥弓を彎き矢を属け、出でて使者を見て曰く、「父罪有り。何を以て其の子を召すことを為す」と。将に射んとす。使者還り走る。遂に出でて呉に奔る。伍奢之を聞きて曰く、「胥亡ぐ。楚国危ふきかな」と。楚人遂に伍奢及び尚を殺す。十年、楚の太子建の母居巣に在り、呉に開く。呉公子光をして楚を伐たしめ、遂に陳・蔡を敗り、太子建の母を取りて去る。楚恐れ、郢に城く。初め、呉の辺邑卑梁と楚の辺邑鐘離の小童と桑を争ふ。両家交々怒りて相攻め、卑梁の人を滅ぼす。卑梁の大夫怒り、邑の兵を発して鐘離を攻む。楚王之を聞きて怒り、国の兵を発して卑梁を滅ぼす。
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史記 伍子胥列伝無忌既に秦の女を以て自ら平王に媚び、因りて太子を去りて平王に事ふ。一旦平王卒して太子立たば己を殺さんことを恐れ、乃ち因りて太子建を讒す。建の母は蔡の女なり、平王に寵無し。平王稍く益々建を疏んじ、建をして城父を守り辺兵に備へしむ。頃之、無忌又日夜太子の短を王に言ひて曰く、「太子は秦の女の故を以て、怨望無きこと能はず。願はくは王少しく自ら備へよ。太子、城父に居り兵を将ゐし自り、外、諸侯に交はり、且に入りて乱を為さんと欲す」と。平王乃ち其の太傅伍奢を召して之を考問す。伍奢、無忌の太子を平王に讒するを知り、因りて曰く、「王独り奈何ぞ讒賊の小臣を以て骨肉の親を疏んずるか」と。無忌曰く、「王今制せずは、其の事成らん。王且に禽にせられんとす」と。是に於いて平王怒り、伍奢を囚らへ、城父の司馬奮揚をして往きて太子を殺さしむ。行きて未だ至らず、奮揚、人をして先づ太子に告げしむ、「太子急に去れ、然らずんば将に誅せられんとす」と。太子建、亡げて宋に奔る。
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呂氏春秋・愼行②荊の平王に臣有り、費無忌と曰う。太子建を害み、之を去らんと欲す。王、建の為に妻を秦より取るに美なり。無忌、王に勸めて奪う。王已に之を奪いて、太子を疏ず。無忌、王に說きて曰く、「晉の霸たるや、諸夏に近ければなり。而るに荊は僻なり。故に與に爭うこと能わず。大いに城父に城きて、太子を置き、以て北方を求めしめ、王は南方を収むるに若かず。是れ天下を得るなり。」王說び、太子をして城父に居らしむ。居ること一年、乃ち之を惡りて曰く、「建、連尹と將に方城の外を以て反せんとす。」王曰く、「已に我が子為り。又尚ほ奚をか求めん。」對えて曰く、「妻の事を以て怨む。且つ自ら以為えらく、猶ほ宋のごとし、と。齊・晉又之を輔け、將に以て荊を害せんとす。其の事已に集れり。」王之を信じ、連尹を執らえしむ。太子建は出奔す。左尹郤宛は、國人之を說ぶ。無忌又之を殺さんと欲し、令尹子常に謂いて曰く、「郤宛は令尹に酒を飲ましめんと欲す。」又郤宛に謂いて曰く、「令尹、酒を子の家に飲まんと欲す。」郤宛曰く、「我賤人なり。以て令尹を辱くするに足らず。令尹必ず來たりて辱くせば、我且に何を以てか之を給待せん。」無忌曰く、「令尹は甲兵を好む。子出だして之を門に寘き、令尹至りなば、必ず之を觀ん。已にして因りて以て酬と為せ。」饗日に及び、門の左右に惟して甲兵を寘く。無忌因りて令尹に謂いて曰く、「吾幾んど令尹に禍いせんとす。郤宛將に令尹を殺さんとす。甲門に在り。」令尹、人をして之を視しむるに、信なり。遂に郤宛を攻めて、之を殺す。國人大いに怨み、胙を進むる者、令尹を非らざるもの莫し。沈尹戍、令尹に謂いて曰く、「夫の無忌は、荊の讒人なり。太子建を亡せしめ、連尹奢を殺し、王の耳目を屏う。今令尹又之を用い、衆く不辜を殺し、以て大謗を興し、患い幾んど令尹に及ばんとす。」令尹子常曰く、「是れ吾が罪なり。敢て良く圖らざらんや。」乃ち費無忌を殺し、盡く其の族を滅ぼし、以て其の國を說ばす。動くに其の義を論ぜず、人を害するを知るも、人の己を害するを知らず、以て其の族を滅ぼすは、費無忌の謂か。
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史記 陳杞世家此に在らずして、其れ異国に在らんか。此の其の身に非ずして、其の子孫に在らん。若し異国に在らば、必ず姜姓ならん。姜姓は太嶽の後なり。物は能く両ながら大なること莫し。陳衰へなば、此れ其れ昌えんか」と。厲公蔡の女を取る。蔡の女蔡人と乱す。厲公数々蔡に如きて淫す。七年、厲公の殺す所の桓公の太子免の三弟、長を躍と曰ひ、中を林と曰ひ、少を杵臼と曰ふ。共に蔡人をして厲公を誘ふに好女を以てせしめ、蔡人と共に厲公を殺して躍を立つ。是を利公と為す。利公は、桓公の子なり。利公立ちて五月にして卒し、中弟の林を立つ。是を荘公と為す。荘公七年にして卒し、少弟の杵臼立つ。是を宣公と為す。宣公の三年、楚の武王卒し、楚始めて彊し。十七年、周の恵王陳の女を娶りて后と為す。二十一年、宣公後に嬖姫有りて子款を生む。之を立てんと欲し、乃ち其の太子御寇を殺す。御寇素より厲公の子完を愛す。完禍の己に及ばんことを懼れ、乃ち斉に奔る。斉の桓公陳完をして卿為らしめんと欲す。完曰く、「羈旅の臣、幸ひに負檐(ふたん)を免るるを得たるは、君の恵みなり。敢て高位に当たらず」と。桓公工正と為さしむ。斉の懿仲陳の敬仲に妻せんと欲し、之を卜す。占に曰く、「是れ鳳皇于に飛び、和鳴鏘鏘たりと謂ふ。有媯の後、将に姜に育たんとす。五世にして其れ昌え、正卿に并ぶ。八世の後、之と京(おほい)なるもの莫し」と。三十七年、斉の桓公蔡を伐ち、蔡敗る。南のかた楚を侵し、召陵に至り、還りて陳を過ぐ。陳の大夫轅濤塗其の陳を過ぐるを悪み、斉を詐りて東道に出でしむ。東道悪しく、桓公怒り、陳の轅濤塗を執ふ。是の歳、晋の献公其の太子申生を殺す。四十五年、宣公卒し、子の款立つ。是を穆公と為す。穆公の五年、斉の桓公卒す。十六年、晋の文公楚の師を城濮に敗る。是の歳、穆公卒し、子の共公朔立つ。共公の六年、楚の太子商臣其の父成王を弑して代はり立つ。是を穆王と為す。十一年、秦の穆公卒す。十八年、共公卒し、子の霊公平国立つ。霊公の元年、楚の荘王即位す。六年、楚陳を伐つ。十年、陳楚と平らぐ。
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