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史記 / 晋世家

子圉遂亡歸晉。十四年九月,惠公卒,太子圉立,是爲懷公。子圉之亡,秦怨之,乃求公子重耳,欲内之。子圉之立,畏秦之伐也。乃令國中諸從重耳亡者與期,期盡不到者盡滅其家。狐突之子毛及偃從重耳在秦,弗肯召。懷公怒,囚狐突。突曰:「臣子事重耳有年數矣,今召之,是教之反君也。何以教之?」懷公卒殺狐突。秦繆公乃發兵送内重耳,使人告欒、郤之黨爲内應,殺懷公於髙梁,入重耳。重耳立,是爲文公。晉文公重耳,晉獻公之子也。自少好士,年十七,有賢士五人:曰趙衰;狐偃咎犯,文公舅也;賈佗;先軫;魏武子。自獻公爲太子時,重耳固已成人矣。獻公卽位,重耳年二十一。獻公十三年,以驪姬故,重耳備蒲城守秦。獻公二十一年,獻公殺太子申生,驪姬讒之,恐,不辭獻公而守蒲城。獻公二十二年,獻公使宦者履鞮趣殺重耳。重耳踰垣,宦者逐斬其衣袪。重耳遂奔狄。狄,其母國也。是時重耳年四十三。從此五士,其餘不名者數十人,至狄。狄伐咎如,得二女:以長女妻重耳,生伯鯈、叔劉;以少女妻趙衰,生盾。居狄五歳而晉獻公卒,裏克已殺奚齊、悼子,乃使人迎,欲立重耳。重耳畏殺,因固謝,不敢入。已而晉更迎其弟夷吾立之,是爲惠公。

新字:子圉遂亡帰晋。十四年九月,恵公卒,太子圉立,是為懐公。子圉之亡,秦怨之,乃求公子重耳,欲内之。子圉之立,畏秦之伐也。乃令国中諸従重耳亡者与期,期尽不到者尽滅其家。狐突之子毛及偃従重耳在秦,弗肯召。懐公怒,囚狐突。突曰:「臣子事重耳有年数矣,今召之,是教之反君也。何以教之?」懐公卒殺狐突。秦繆公乃発兵送内重耳,使人告欒、郤之党為内応,殺懐公於高梁,入重耳。重耳立,是為文公。晋文公重耳,晋献公之子也。自少好士,年十七,有賢士五人:曰趙衰;狐偃咎犯,文公舅也;賈佗;先軫;魏武子。自献公為太子時,重耳固已成人矣。献公即位,重耳年二十一。献公十三年,以驪姫故,重耳備蒲城守秦。献公二十一年,献公殺太子申生,驪姫讒之,恐,不辞献公而守蒲城。献公二十二年,献公使宦者履鞮趣殺重耳。重耳踰垣,宦者逐斬其衣袪。重耳遂奔狄。狄,其母国也。是時重耳年四十三。従此五士,其余不名者数十人,至狄。狄伐咎如,得二女:以長女妻重耳,生伯鯈、叔劉;以少女妻趙衰,生盾。居狄五歳而晋献公卒,裏克已殺奚斉、悼子,乃使人迎,欲立重耳。重耳畏殺,因固謝,不敢入。已而晋更迎其弟夷吾立之,是為恵公。

書き下し

子圉遂に亡げて晋に帰る。十四年九月、恵公卒し、太子圉立つ。是を懐公と為す。子圉の亡ぐるや、秦之を怨み、乃ち公子重耳を求め、之を内れんと欲す。子圉の立つや、秦の伐たんことを畏る。乃ち国中の諸々の重耳に従ひて亡げし者に令して与に期し、期尽きて到らざる者は尽く其の家を滅ぼさんとす。狐突の子毛及び偃重耳に従ひて秦に在り。召すを肯ぜず。懐公怒り、狐突を囚ふ。突曰く、「臣の子重耳に事ふること年数有り。今之を召すは、是れ之に君に反くことを教ふるなり。何を以て之を教へん」と。懐公卒に狐突を殺す。秦の繆公乃ち兵を発して送りて重耳を内れ、人をして欒・郤の党に告げて内応を為さしめ、懐公を高梁に殺し、重耳を入る。重耳立つ。是を文公と為す。晋の文公重耳は、晋の献公の子なり。少きより士を好み、年十七にして、賢士五人有り。趙衰と曰ひ、狐偃咎犯、文公の舅なり、賈佗、先軫、魏武子なり。献公の太子為りし時より、重耳固より已に成人たり。献公即位するとき、重耳年二十一なり。献公の十三年、驪姫の故を以て、重耳蒲城に備へて秦を守る。献公の二十一年、献公太子申生を殺す。驪姫之を讒す。恐れて、献公に辞せずして蒲城を守る。献公の二十二年、献公宦者履鞮をして趣(すみ)やかに重耳を殺さしむ。重耳垣を踰ゆ。宦者逐ひて其の衣袪を斬る。重耳遂に狄に奔る。狄は、其の母の国なり。是の時重耳年四十三なり。此の五士に従ひ、其の余の名あらざる者数十人、狄に至る。狄咎如を伐ち、二女を得たり。長女を以て重耳に妻し、伯鯈・叔劉を生む。少女を以て趙衰に妻し、盾を生む。狄に居ること五歳にして晋の献公卒す。里克已に奚斉・悼子を殺し、乃ち人をして迎へしめ、重耳を立てんと欲す。重耳殺されんことを畏れ、因りて固く謝し、敢て入らず。已にして晋更に其の弟夷吾を迎へて之を立つ。是を恵公と為す。

現代語訳

子圉はそのまま逃げて晋に帰った。十四年九月、恵公が亡くなり、太子の圉が立った。これが懐公である。子圉が逃げ帰ったことを秦は恨み、公子重耳を探し求めて、晋に入れようとした。子圉は即位すると、秦に攻められるのを恐れた。そこで国内で重耳に従って亡命している者たちに期限を定めて帰国を命じ、期限までに帰らない者は一家をことごとく滅ぼすと布告した。狐突の子の狐毛と狐偃は重耳に従って秦にいたが、狐突は二人を呼び戻そうとしなかった。懐公は怒って狐突を捕らえた。狐突は言った。「私の子は長年重耳に仕えている。いま呼び戻すのは、主君に背くことを教えることになる。どうしてそんなことを教えられようか」。懐公はとうとう狐突を殺した。秦の繆公は兵を出して重耳を晋に送り届け、人を送って欒氏・郤氏の一党に内応させ、懐公を高梁で殺して、重耳を晋に入れた。重耳は即位した。これが文公である。晋の文公重耳は、晋の献公の子である。若いころから士を好み、十七歳のときには五人の賢士がいた。趙衰、文公の母方の叔父である狐偃(咎犯)、賈佗、先軫、魏武子である。献公がまだ太子であったころから、重耳はすでに成人していた。献公が即位したとき、重耳は二十一歳であった。献公の十三年、驪姫のことがあって、重耳は蒲の城で秦に備えて守った。献公の二十一年、献公が太子申生を殺した。驪姫が重耳を中傷したので、重耳は恐れて、献公に挨拶もせずに蒲の城に戻って守った。献公の二十二年、献公は宦官の履鞮を送り、すぐに重耳を殺すよう命じた。重耳は垣根を乗り越えて逃げ、宦官は追いかけてその袖を斬り落とした。重耳はそのまま狄に逃れた。狄は重耳の母の国である。このとき重耳は四十三歳であった。この五人の賢士が従い、そのほか名の知られていない者も数十人が従って狄に至った。狄は咎如を攻めて二人の娘を得た。姉を重耳に嫁がせ、伯鯈と叔劉が生まれた。妹を趙衰に嫁がせ、趙盾が生まれた。狄に五年いたところで晋の献公が亡くなった。里克はすでに奚斉と悼子を殺しており、人を送って重耳を迎え、君主に立てようとした。重耳は殺されることを恐れて固く辞退し、帰国しようとはしなかった。やがて晋はあらためて弟の夷吾を迎えて君主に立てた。これが恵公である。

解説

懐公の短い治世の終わりと、晋の文公重耳の即位、そしてその生い立ちをふり返る段です。人質の身から逃げ帰って即位した懐公は、秦の怒りを恐れ、重耳に従う者を期限までに呼び戻さなければ一家を滅ぼすと命じます。しかし狐突は「子に主君を裏切れと教えることはできない」と拒み、殺されました。親として子の忠義を守らせた、気骨ある態度です。秦の後押しと国内の内応によって懐公は殺され、重耳がついに即位します。ここから司馬遷は時間をさかのぼり、重耳が若いころから士を好み、趙衰・狐偃・賈佗・先軫・魏武子という五人の賢士を得ていたことを語ります。四十三歳で狄に逃れた重耳のまわりに、数十人もの人が従っていたのは、日ごろから人を大切にしてきたからでしょう。力で人を縛ろうとした懐公と、慕われて人が集まった重耳の違いが、そのまま勝敗を分けました。人は命令ではなく信頼によってついてくるのです。

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