春秋左氏伝 / 文公七年 人に先んじて心を奪う
秦康公送公子雍于晉,曰:「文公之入也,無衛,故有呂郤之難。」乃多與之徒衛。穆嬴日抱太子以啼于朝,曰:「先君何罪,其嗣亦何罪,舍適嗣不立,而外求君,將焉寘此?」出朝則抱以適趙氏,頓首於宣子曰:「先君奉此子也,而屬諸子曰,此子也才,吾受子之賜;不才,吾唯子之怨。今君雖終,言猶在耳,而棄之,若何?」宣子與諸大夫皆患穆嬴,且畏偪,乃背先蔑而立靈公,以禦秦師,箕鄭居守。趙盾將中軍,先克佐之,荀林父佐上軍,先蔑將下軍,先都佐之,步招御戎,戎津為右,及堇陰,宣子曰:「我若受秦,秦則賓也;不受,寇也。既不受矣,而復緩師,秦將生心。先人有奪人之心,軍之善謀也;逐寇如追逃,軍之善政也。」
新字:秦康公送公子雍于晋,曰:「文公之入也,無衛,故有呂郤之難。」乃多与之徒衛。穆嬴日抱太子以啼于朝,曰:「先君何罪,其嗣亦何罪,舎適嗣不立,而外求君,将焉寘此?」出朝則抱以適趙氏,頓首於宣子曰:「先君奉此子也,而属諸子曰,此子也才,吾受子之賜;不才,吾唯子之怨。今君雖終,言猶在耳,而棄之,若何?」宣子与諸大夫皆患穆嬴,且畏偪,乃背先蔑而立霊公,以禦秦師,箕鄭居守。趙盾将中軍,先克佐之,荀林父佐上軍,先蔑将下軍,先都佐之,歩招御戎,戎津為右,及堇陰,宣子曰:「我若受秦,秦則賓也;不受,寇也。既不受矣,而復緩師,秦将生心。先人有奪人之心,軍之善謀也;逐寇如追逃,軍之善政也。」
書き下し
秦の康公公子雍を晉に送りて、曰く、「文公の入るや、衛無し、故に呂・郤の難有り」と。乃ち多く之に徒衛を與ふ。穆嬴日に太子を抱きて以って朝に啼きて、曰く、「先君何の罪かある、其の嗣も亦た何の罪かある。適嗣を舍てて立てずして、外に君を求む、將に焉くにか此を寘かんとする」と。朝を出づれば則ち抱きて以って趙氏に適き、宣子に頓首して曰く、「先君此の子を奉じて、諸を子に屬して曰く、『此の子や才あらば、吾子の賜を受けん。不才ならば、吾唯だ子を之れ怨みん』と。今君終はると雖も、言猶ほ耳に在り、而るに之を棄つるは、若何」と。宣子と諸大夫と皆穆嬴を患ひ、且つ偪らるるを畏れ、乃ち先蔑に背きて靈公を立て、以って秦の師を禦ぐ。箕鄭居守す。趙盾中軍に將たり、先克之に佐たり。荀林父上軍に佐たり。先蔑下軍に將たり、先都之に佐たり。步招戎に御し、戎津右と為る。堇陰に及び、宣子曰く、「我若し秦を受けば、秦は則ち賓なり。受けずんば、寇なり。既に受けず、而も復た師を緩くせば、秦將に心を生ぜんとす。人に先んじて人の心を奪ふ有るは、軍の善謀なり。寇を逐ふこと逃ぐるを追ふが如くするは、軍の善政なり」と。
現代語訳
秦の康公は公子雍(晋の文公の子、秦に仕えていた)を晋へ送り出し、言った。「文公が晋に入国したときには護衛がなかった。だから呂甥・郤芮の乱が起きたのだ」。そこで歩兵の護衛を多くつけてやった。一方、穆嬴(晋の襄公の夫人)は毎日太子(のちの霊公、夷皋)を抱いて朝廷で泣き、言った。「先君に何の罪がありましょう。その跡継ぎにも何の罪がありましょう。正統の嗣子を捨てて立てず、国外に君主を求めるとは、この子をどこに置くおつもりか」。朝廷を出ると太子を抱いて趙氏の家に行き、宣子(趙盾、晋の執政)に額を地につけて言った。「先君はこの子を抱いて、あなたに託してこうおっしゃいました。『この子が才ある者に育てば、私はあなたの恩を受けたことになる。才なき者となれば、私はただあなたを怨むだろう』と。いま君はお亡くなりになったとはいえ、そのお言葉はなお耳に残っております。それなのにこの子を見捨てるとは、どういうことですか」。宣子と大夫たちは皆、穆嬴を持て余し、また国人から圧迫されることを恐れて、先蔑(公子雍を迎えに秦へ行った使者)との約束に背いて霊公を立て、秦の軍を防ぐことにした。箕鄭が留守を守った。趙盾が中軍の将、先克がその佐、荀林父が上軍の佐、先蔑が下軍の将、先都がその佐となり、歩招が君主の戦車の御者、戎津が車右となった。堇陰に至ったとき、宣子は言った。「我々がもし秦(の送ってくる公子雍)を受け入れるなら、秦は賓客である。受け入れないなら、敵である。すでに受け入れないと決めたのに、なお軍の動きを緩めれば、秦は野心を起こすだろう。人に先んじて相手の戦意を奪うのは、軍の良い謀である。敵を追うのに逃亡者を追うように急ぐのは、軍の良い処置である」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『春秋左氏伝』昭公二十一年 先んずれば人の心を奪う冬、十月、華登吳の師を以って華氏を救ふ。齊の烏枝鳴宋を戍る。廚人濮曰く、「軍志に之れ有り、『人に先んずれば人の心を奪ふ有り、人に後るれば其の衰へを待つ有り』と。盍ぞ其の勞して且つ未だ定まらざるに及びて、諸を伐たざる。若し入りて固くせば、則ち華氏衆からん。悔ゆとも及ぶ無からん」と。之に從ふ。丙寅、齊の師・宋の師、吳の師を鴻口に敗り、其の二帥、公子苦雂・偃州員を獲たり。華登、其の餘を帥ゐて以って宋の師を敗る。公出でんと欲す。廚人濮曰く、「吾は小人なり、死を藉(か)す可くして亡を送る能はず。君請ふ之を待て」と。乃ち徇へて曰く、「徽を楊ぐる者は、公の徒なり」と。衆之に從ふ。公楊門より之を見、下りて之を巡りて曰く、「國亡び君死するは、二三子の恥なり。豈に專ら孤の罪ならんや」と。齊の烏枝鳴曰く、「少を用ゐるは齊しく死を致すに如くは莫く、齊しく死を致すは備へを去るに如くは莫し。彼は兵多し。
-
『春秋左氏伝』宣公十二年 人に先んずる趙嬰齊其の徒をして先づ舟を河に具へしむ、故に敗れて先づ濟る。潘黨既に魏錡を逐ふ。趙旃夜楚の軍に至り、軍門の外に席して、其の徒をして之に入らしむ。楚子乘廣三十乘を為り、分ちて左右と為す。右廣は、雞鳴にして駕し、日中にして說く。左則ち之を受け、日入にして說く。許偃右廣に御し、養由基右と為る。彭名左廣に御し、屈蕩右と為る。乙卯、王左廣に乘りて、以て趙旃を逐ふ。趙旃車を棄てて林に走る、屈蕩之に搏ちて、其の甲裳を得たり。晉人二子の楚の師を怒らせんことを懼るるや、軘車をして之を逆へしむ。潘黨其の塵を望み、騁せて告げしめて曰く、「晉の師至れり」と。楚人も亦た王の晉の軍に入らんことを懼るるや、遂に出でて陳す。孫叔曰く、「之を進めよ。寧ろ我人に薄るとも、人の我に薄ること無かれ。詩に云ふ、『元戎十乘、以て先づ行を啟く』と、人に先んずるなり。軍志に曰く、『人に先んずれば人の心を奪ふこと有り』と、之に薄るなり」と。遂に疾く師を進め、車馳せ卒奔りて、晉の軍に乘ず。桓子為す所を知らず、軍中に鼓して、曰く、「先づ濟る者には賞有り」と。
-
孫子・虚実篇孫子曰く、凡そ先に戦地に処して敵を待つ者は佚く、後に戦地に処して戦いに趨く者は労す。
-
『甲陽軍鑑』品第四十但それは主もたぬ大名の事、一万の人数を引まはせども、大将を持て其先をする人は、敵に向ひ余り遠慮だていかゞなり、其いはれは、いたらぬ者共侍大将の遠慮するを、敵におづると思ひめしつるゝ、そう軍が気遣ひをして敵におぢ、味かたの威勢よはくなるなり、則政公内衆も其味にて、氏康に度々にしまげられてこそありつらめ、と高坂が云へば、
-
戦国策・或謂公仲或るひと公仲に謂いて曰く、「今一舉にして以て主に忠にし、國に便にし、身に利する可き有り、願わくは公の之を行わんことを。今天下散じて秦に事うれば、則ち韓最も輕んぜられん。天下合して秦を離るれば、則ち韓最も弱からん。合離の相續けば、則ち韓最も先に危うからん。此れ君國長民の大患なり。今公韓を以て先に秦に合すれば、天下之に隨わん、是れ韓天下を以て秦に事うるなり、秦の韓を德とすること厚し。韓天下と與に秦に朝すれども、獨り厚く德を取れば、公の之を行うの計、是れ其の主に於けるや至忠なり。天下秦に合せず、秦令すれども聽かざれば、秦必ず兵を起こして服せざるを誅せん。秦久しく天下と怨みを結び難を構え、兵決せず、韓士民を息めて以て其の亹を待たば、公の之を行うの計、是れ其の國に於けるや、大便なり。昔者周佼西周を以て秦に善くして、梗陽に封ぜられ、周啟東周を以て秦に善くして、平原に封ぜらる。今公韓を以て秦に善くすれば、韓の兩周に重きこと計る無く、秦の機を爭うや、周の時より萬なり。今公韓を以て天下に先んじて秦に合すれば、秦必ず公を以て諸侯と為し、以て明らかに天下に示さん、公の之を行うの計、是れ其の身に於けるや大利なり。願わくは公の務めを加えんことを。」
-
葉隠・聞書第一鉄山(てつざん)、老後に申し候は、「取手は相撲には違い、一旦(いったん)下になりても、後に勝ちさえすれば済む事と心得罷(まか)り在り。近年存じ当たり候は、一旦下になりて居る時、若(も)し誰(だれ)ぞ取りさかえ候わば負けになるべし。始めに勝つが始終の勝ちなり。」と申され候由。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る