春秋左氏伝 / 閔公二年 邢遷りて帰するが如し
大子將戰,狐突諫曰:「不可,昔辛伯諗周桓公云:『內寵並后,外寵二政,嬖子配適,大都耦國,亂之本也。』周公弗從,故及於難。今亂本成矣,立可必乎?孝而安民,子其圖之!與其危身以速罪也。」成風聞成季之繇,乃事之,而屬僖公焉,故成季立之。僖之元年,齊桓公遷邢于夷儀。二年,封衛于楚丘。邢遷如歸,衛國忘亡。衛文公大布之衣、大帛之冠,務材訓農,通商惠工,敬教勸學,授方任能。元年,革車三十乘;季年,乃三百乘。
新字:大子将戦,狐突諫曰:「不可,昔辛伯諗周桓公云:『内寵並后,外寵二政,嬖子配適,大都耦国,乱之本也。』周公弗従,故及於難。今乱本成矣,立可必乎?孝而安民,子其図之!与其危身以速罪也。」成風聞成季之繇,乃事之,而属僖公焉,故成季立之。僖之元年,斉桓公遷邢于夷儀。二年,封衛于楚丘。邢遷如帰,衛国忘亡。衛文公大布之衣、大帛之冠,務材訓農,通商恵工,敬教勧学,授方任能。元年,革車三十乗;季年,乃三百乗。
書き下し
大子將に戰はんとす。狐突諫めて曰く、「不可なり。昔辛伯周の桓公に諗げて云ふ、『內寵后に並び、外寵政を二にし、嬖子適に配し、大都國に耦するは、亂の本なり』と。周公從はず、故に難に及ぶ。今亂の本成れり、立つこと必す可けんや。孝にして民を安んぜよ、子其れ之を圖れ。其の身を危うくして以って罪を速かんよりは與し」と。成風成季の繇を聞き、乃ち之に事へて、僖公を屬す。故に成季之を立つ。僖の元年、齊の桓公邢を夷儀に遷す。二年、衛を楚丘に封ず。邢遷りて歸するが如く、衛國亡を忘る。衛の文公大布の衣、大帛の冠、材を務め農を訓へ、商を通じ工を惠み、教へを敬し學を勸め、方を授け能に任ず。元年、革車三十乘。季年、乃ち三百乘。
現代語訳
太子申生が戦おうとしたとき、狐突が諫めて言った。「なりません。昔、辛伯は周の桓公(周公黒肩)に忠告して言いました。『宮中の寵姫が正后と肩を並べ、外朝の寵臣が執政と権を二分し、寵愛される庶子が嫡子と並び、大きな都邑が国都に匹敵する。これが乱の根本である』と。周公は従わず、そのため難に遭いました。いま乱の根本はすでにできあがっています。あなたが位に立てると決まっていましょうか。孝を尽くして民を安んじることを、どうかお考えなさい。身を危うくして罪を早めるよりはましです」。一方、魯では、成風(荘公の妾、僖公の母)が成季(季友)の誕生のときの占いの言葉を聞いて、成季に仕え、息子の僖公を託した。だから成季は僖公を立てたのである。僖公元年、斉の桓公は邢の国を夷儀に移した。二年には衛を楚丘に封じた。邢の人々は移住してもまるで故郷に帰ったかのようであり、衛の人々は国が滅んだことを忘れるほどであった。衛の文公は粗い麻布の衣と粗い絹の冠を身につけ、資材を整え農業を教え、商業を通じさせ工人を優遇し、教化を重んじ学問を勧め、方策を授け有能な者に任せた。即位元年には兵車が三十乗しかなかったが、晩年には三百乗になった。
解説
この章句が説くこと
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史記 李斯列伝臣聞く、地広き者は粟多く、国大なる者は人衆く、兵彊ければ則ち士勇なりと。是を以て太山は土壌を譲らず、故に能く其の大を成す。河海は細流を択ばず、故に能く其の深きを就す。王者は衆庶を卻けず、故に能く其の徳を明らかにす。是を以て地に四方無く、民に異国無く、四時充美にして、鬼神福を降す。此れ五帝・三王の敵無き所以なり。今乃ち黔首を棄てて以て敵国に資し、賓客を卻けて以て諸侯に業し、天下の士をして退きて敢て西に向かはず、足を裹みて秦に入らざらしむ。此れ所謂「寇に兵を藉して盗に糧を齎す」者なり。夫れ物の秦に産せずして、宝とすべき者多し。士の秦に産せずして、忠を願ふ者衆し。今客を逐ひて以て敵国に資し、民を損じて以て讎を益し、内自ら虚しくして外怨みを諸侯に樹つ。国の危ふき無きを求むるも、得べからざるなり、と。秦王乃ち逐客の令を除き、李斯の官を復し、卒に其の計謀を用ふ。
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史記 淮陰侯列伝信数しば蕭何と語る。何之を奇とす。南鄭に至るに、諸将の道に行きて亡ぐる者数十人。信度るに、何等已に数しば上に言ふも、上我を用ゐずと、即ち亡ぐ。何信の亡ぐるを聞き、以て聞するに及ばず、自ら之を追ふ。人有りて上に言ひて曰く、「丞相何亡げたり」と。上大いに怒り、左右の手を失ふが如し。居ること一二日、何来りて上に謁す。上且つ怒り且つ喜び、何を罵りて曰く、「若亡ぐるは、何ぞや」と。何曰く、「臣敢へて亡げざるなり。臣は亡ぐる者を追ふ」と。上曰く、「若追ふ所の者は誰ぞ」と。何曰く、「韓信なり」と。上復た罵りて曰く、「諸将の亡ぐる者は十を以て数ふるも、公追ふ所無し。信を追ふは、詐りなり」と。何曰く、「諸将は得易きのみ。信の如き者に至りては、国士無双なり。王必ず長く漢中に王たらんと欲せば、信を事とする所無し。必ず天下を争はんと欲せば、信に非ずんば与に事を計る所の者無し。顧ふに王の策安くに決する所かのみ」と。王曰く、「吾も亦東せんと欲するのみ。安んぞ能く郁郁として久しく此に居らんや」と。何曰く、「王の計必ず東せんと欲せば、能く信を用ゐば、信即ち留まらん。用ゐること能はずんば、信終に亡げんのみ」と。王曰く、「吾公の為に以て将と為さん」と。何曰く、「将と為すと雖も、信必ず留まらじ」と。王曰く、「以て大将と為さん」と。何曰く、「幸甚なり」と。是に於て王信を召して之を拝せんと欲す。何曰く、「王素より慢にして礼無し。今大将を拝すること小児を呼ぶが如きのみ。此れ乃ち信の去る所以なり。王必ず之を拝せんと欲せば、良日を択び、斎戒し、壇場を設け、礼を具へて、乃ち可なるのみ」と。王之を許す。諸将皆喜び、人人各自ら以て大将を得んと為す。大将を拝するに至りて、乃ち韓信なり。一軍皆驚く。
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『韓非子』亡徵第十五境内の傑、事とされずして、封外の士を求め、功伐を以て課試せずして、好んで名問を以て舉錯し、羈旅起り貴くして以て故常を陵ぐ者は、亡ぶ可きなり。
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史記 管晏列伝管仲夷吾は、潁上の人なり。少き時常に鮑叔牙と游び、鮑叔、其の賢なるを知れり。管仲貧困にして、常に鮑叔を欺くも、鮑叔、終に善く之を遇し、以て言を為さず。已にして鮑叔、斉の公子小白に事へ、管仲は公子糾に事ふ。小白立ちて桓公と為り、公子糾死するに及び、管仲囚はる。鮑叔遂に管仲を進む。管仲既に用ひられ、政に斉に任ず。斉の桓公以て覇たり、諸侯を九合し、天下を一匡したるは、管仲の謀なり。
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史記 孫子呉起列伝呉起是に於いて魏の文侯の賢なるを聞き、之に事へんと欲す。文侯、李克に問ひて曰く、「呉起は何如なる人ぞ」と。李克曰く、「起は貪にして色を好む。然れども兵を用ゐるは、司馬穰苴も過ぐる能はざるなり」と。是に於いて魏の文侯以て将と為し、秦を撃ち、五城を抜く。
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史記 酈生陸賈列伝酈生食其(れきせいいき)は、陳留高陽の人なり。読書を好み、家貧しく落魄して、以て衣食の業を為す無く、里の監門の吏と為る。然れども県中の賢豪敢へて役せず、県中皆之を狂生と謂ふ。陳勝・項梁等の起こるに及び、諸将の地を徇へて高陽を過ぐる者数十人、酈生其の将皆握齱(あくさく)として苛礼を好み自ら用ひ、大度の言を聴く能はずと聞き、酈生乃ち深く自ら蔵匿す。後に沛公兵を将ゐて地を陳留の郊に略すと聞く。沛公の麾下の騎士、適(たまたま)酈生の里中の子なり、沛公時時邑中の賢士豪俊を問ふ。騎士帰る。酈生見えて之に謂ひて曰く、「吾聞く、沛公は慢にして人を易(あなど)るも、大略多しと。此れ真に吾が従ひて游ばんと願ふ所なり、我が為に先(さきだ)つ莫し。若し沛公に見えなば、謂ひて曰へ、『臣が里中に酈生有り、年六十余、長八尺、人皆之を狂生と謂ふも、生は自ら我は狂生に非ずと謂ふ』と」と。騎士曰く、「沛公は儒を好まず、諸客の儒冠を冠して来たる者あれば、沛公輒ち其の冠を解き、其の中に溲溺(そうでき)す。人と言ふに、常に大いに罵る。未だ儒生を以て説くべからざるなり」と。酈生曰く、「弟(ただ)之を言へ」と。騎士従容として酈生の誡むる所の如く言ふ。沛公高陽の伝舎に至り、人をして酈生を召さしむ。酈生至り、入りて謁す。沛公方に床に倨して両女子をして足を洗はしめ、而して酈生を見る。酈生入り、則ち長揖して拝せず、曰く、「足下は秦を助けて諸侯を攻めんと欲するか。且(はた)諸侯を率ゐて秦を破らんと欲するか」と。沛公罵りて曰く、「豎儒(じゅじゅ)。夫れ天下同じく秦に苦しむこと久し、故に諸侯相率ゐて秦を攻む。何ぞ秦を助けて諸侯を攻むと謂ふや」と。酈生曰く、「必ず徒を聚め義兵を合はせて無道の秦を誅せんとならば、宜しく倨して長者を見るべからず」と。是に於て沛公洗ふを輟め、起ちて衣を摂(ととの)へ、酈生を延きて上坐せしめ、
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