風姿花伝 / 第七 別紙口伝
一 抑因果とてよきあしき時のあるも公案を尽して見るにただめづらしきめづらしからぬの二つなりおなじ上手にておなじ能を昨日今日見れどもおもしろやと見えつる事の今またおもしろくもなき時のあるは昨日おもしろかりつる心ならひに今日はめづらしからぬによりてわるしと見るなりその後またよき時のあるは先にわるかりつるものをと思ふ心まためづらしきに還りておもしろくなるなりさればこの道をきはめをはりて見れば花とて別にはなきものなり奥義をきはめてよろづにめづらしき理をわれと知るならでは花はあるべからず経にいはく善悪不二邪正一如とあり本来よりよきあしきとは何をもて定むべきやただ時によりて用足る物をばよき物とし用足らぬをあしき物とすこの風体の品々も当世の衆人諸所にわたりてその時のあまねき好みによりて取出す風体これ用足る為の花なるべしここにこの風体をもてあそめばかしこにまた余の風体を賞翫すこれ人々心々の花なりいづれをまこととせんやただ時に用ゆるをもて花と知るべし
書き下し
一、抑、因果とて、よきあしき時のあるも、公案を尽して見るに、ただめづらしき、めづらしからぬの二つなり。おなじ上手にておなじ能を、昨日今日見れども、おもしろやと見えつる事の、今またおもしろくもなき時のあるは、昨日おもしろかりつる心ならひに、今日はめづらしからぬによりて、わるしと見るなり。その後またよき時のあるは、先にわるかりつるものをと思ふ心、まためづらしきに還りて、おもしろくなるなり。されば、この道をきはめをはりて見れば、花とて別にはなきものなり。奥義をきはめて、よろづにめづらしき理をわれと知るならでは、花はあるべからず。経にいはく、善悪不二、邪正一如とあり。本来より、よきあしきとは何をもて定むべきや。ただ時によりて用足る物をばよき物とし、用足らぬをあしき物とす。この風体の品々も、当世の衆人諸所にわたりて、その時のあまねき好みによりて取出す風体、これ用足る為の花なるべし。ここにこの風体をもてあそめば、かしこにまた余の風体を賞翫す。これ、人々心々の花なり。いづれをまこととせんや。ただ時に用ゆるをもて花と知るべし。
現代語訳
一、そもそも因果といって、良い時・悪い時があるのも、突き詰めて考えてみれば、ただ「珍しい」か「珍しくない」かの二つに尽きる。同じ上手が同じ能を演じるのを昨日今日と見ても、昨日は面白いと見えたことが、今日はまた面白くもない時があるのは、昨日面白かった記憶があるために、今日は珍しくないので悪いと見るのである。その後また良く見える時があるのは、先に悪かったものをと思う心が、再び珍しさに転じて面白くなるからだ。だから、この道を極め尽くして見れば、花といって別に何か特別なものがあるわけではない。奥義を極めて、あらゆることに通じる珍しさの道理を自ら会得しなければ、花は生まれないのだ。経典に言う、「善悪不二、邪正一如(善と悪は二つに分かれず、正邪も一つのごとし)」と。そもそも良い・悪いとは、何を基準に定められるだろうか。ただその時々に役立つものを良いものとし、役立たないものを悪いものとするだけだ。この芸風の品々も、当世の多くの人々がさまざまな場にわたり、その時の広い好みに応じて取り出す芸風、これが役立つための花なのである。こちらでこの芸風を賞美すれば、あちらではまた別の芸風を賞美する。これは、人それぞれの心に応じた花である。どれが本当だと決められようか。ただその時に役立つものをもって花と知るべきである。
解説
この章句が説くこと
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説苑・說叢夫れ水は山に出でて海に入り、稼は田に生じて廩に藏す。聖人は生ずる所を見れば則ち歸する所を知る。
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荀子・大略篇凡そ物は乗じて来たる有り。其の出づるに乗ずる者は、是れ其の反(かへ)りなり。
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説苑・權謀孔子齊景公と坐す。左右白して曰く、「周使來りて廟燔くと言ふ」と。齊景公出でて問ひて曰く、「何の廟ぞや」と。孔子曰く、「是れ釐王の廟なり」と。景公曰く、「何を以て之を知る」と。孔子曰く、「詩に云ふ、『皇皇たる上帝、其の命忒はず』と。天の人に與するや、必ず徳有るに報ゆ。禍も亦た之の如し。夫れ釐王は文武の制を變じて玄黃の宮室を作り、輿馬奢侈にして振ふべからず。故に天其の廟に殃す。是を以て之を知る」と。景公曰く、「天何ぞ其の身に殃せずして其の廟に殃するや」と。子曰く、「天は文王の故を以てなり。若し其の身に殃せば、文王の祀、無乃ち絶えんか。故に其の廟に殃して以て其の過を章かにす」と。左右入りて報じて曰く、「周の釐王の廟なり」と。景公大いに驚き、起ちて拜して曰く、「善き哉、聖人の智、豈に大ならざらんや」と。
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尚書・太甲中天の作せる孽(わざわい)は猶お違(さ)くべきも、自ら作せる孽は逭(のが)るべからず。
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