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春秋左氏伝 / 隠公元年 隠公、位を摂す

惠公元妃孟子。孟子卒,繼室以聲子,生隱公。宋武公生仲子,仲子生而有文在其手,曰「爲魯夫人」。故仲子歸于我,生桓公而惠公薨,是以隱公立而奉之。元年春,王周正月。不書即位,攝也。三月,公及邾儀父盟于蔑,邾子克也。未王命,故不書爵。曰「儀父」,貴之也。公攝位而欲求好於邾,故為蔑之盟。夏四月,費伯帥師城郎。不書,非公命也。

新字:恵公元妃孟子。孟子卒,継室以声子,生隠公。宋武公生仲子,仲子生而有文在其手,曰「為魯夫人」。故仲子帰于我,生桓公而恵公薨,是以隠公立而奉之。元年春,王周正月。不書即位,摂也。三月,公及邾儀父盟于蔑,邾子克也。未王命,故不書爵。曰「儀父」,貴之也。公摂位而欲求好於邾,故為蔑之盟。夏四月,費伯帥師城郎。不書,非公命也。

書き下し

惠公の元妃は孟子なり。孟子卒し、繼室は聲子を以ってし、隱公を生む。宋の武公仲子を生む。仲子生まれて文の其の手に有り、「魯の夫人と爲らん」と曰ふ。故に仲子我に歸ぎ、桓公を生みて惠公薨ず。是を以って隱公立ちて之を奉ず。元年春、王の周正月。即位を書せざるは、攝なればなり。三月、公邾の儀父と蔑に盟ふ。邾子克なり。未だ王命あらず、故に爵を書せず。「儀父」と曰ふは、之を貴ぶなり。公位を攝して好を邾に求めんと欲す、故に蔑の盟を為す。夏四月、費伯師を帥ゐて郎に城く。書せざるは、公の命に非ざればなり。

現代語訳

魯の恵公の正夫人は孟子であった。孟子が亡くなると、後添えとして声子を迎え、声子が隠公を生んだ。宋の武公は娘の仲子をもうけたが、仲子は生まれたとき手のひらに模様があり、それが「魯の夫人と為らん」と読めた。そこで仲子は魯に嫁いできて桓公を生み、その後に恵公が亡くなった。こうして隠公が君位に立ち、幼い桓公を奉じることになった。元年の春、周王の暦の正月。『春秋』が隠公の「即位」を記さないのは、隠公が正式の即位ではなく、桓公に代わって位を仮に預かる「摂」であったからである。三月、隠公は邾の儀父と蔑で盟約した。儀父とは邾の君、克のことである。まだ周王から爵位を授かっていなかったので、「邾子」という爵を記さない。それでも名ではなく字の「儀父」で記したのは、彼を尊重したからである。隠公は位を仮に預かる身として邾との友好を求めたので、蔑の盟約を結んだのである。夏四月、費伯が軍を率いて郎に城壁を築いた。『春秋』がこれを記さないのは、隠公の命令によるものではなかったからである。

解説

『春秋左氏伝』の冒頭である。魯の隠公は恵公の子だが、母は後添えの声子で、正統の後継ぎは宋から嫁いだ仲子の子・桓公とされていた。桓公が幼かったため、隠公は「摂」、つまり仮に位を預かる立場で立つ。『春秋』が隠公の即位を書かないのはそのためだと、左伝は最初の一行で説明する。ここから左伝の基本的な性格が見える。経文の一語一語、書いたこと・書かなかったことに理由を読み取るのである。爵を書かず字で呼ぶのは「貴ぶ」ため、築城を書かないのは君命でないため。記録とは、事実を並べるだけでなく、誰の名で何を正式と認めるかの判断だということである。そしてこの「摂」という仮の立場が、十一年後の隠公弑殺へとつながっていく。暫定の責任者という位置が、組織の中でどれほど危うい均衡の上にあるかを、この物語は最初から示している。

この章句が説くこと

名分正統摂位記録礼

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