春秋繁露 / 『春秋繁露』深察名號第三十五・人の性は教えを待って善となる
性如繭、如卵、卵待覆而成雛、繭待繅而為絲、性待教而為善、此之謂真天。天生民性有善質而未能善、於是為之立王以善之、此天意也。
新字:性如繭、如卵、卵待覆而成雛、繭待繅而為糸、性待教而為善、此之謂真天。天生民性有善質而未能善、於是為之立王以善之、此天意也。
書き下し
性は繭の如く、卵の如し。卵は覆うを待ちて雛と成り、繭は繅るを待ちて糸と為り、性は教えを待ちて善と為る。此を之れ真の天と謂う。天の民を生ずる性は善質有れども未だ善なること能わず。是に於いて之が為に王を立てて以て之を善にせしむ。此れ天意なり。
現代語訳
人の性質は、繭や卵のようなものです。卵は温められて初めて雛になり、繭は糸を引かれて初めて糸になります。性質も同じで、教えを受けて初めて善になります。これが本当の天のはたらきです。天が民に与えた性質には善の素質はありますが、まだ善にはなっていません。そこで民のために王を立てて善にさせるのです。これが天の意志です。
解説
人の性は善の素質を持つが、教育を受けて初めて善になる、という董仲舒の人性論です。孟子の性善説に対し、素質があることと完成していることを分けて論じています。卵や繭の比喩は分かりやすく、教育と環境の大切さを伝えます。人は素質だけでは育たず、適切な指導と場を与えられて開花する。部下の育成や自分の学びを考えるとき、素質があるから放っておく、という態度を戒め、整えることが上に立つ者の役目だと気づかせてくれます。

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性善質教繭卵王
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