論衡 / 『論衡』本性篇第十三・人の性にも才にも高下がある
實者、人性有善有惡、猶人才有高有下也。高不可下、下不可高。謂性無善惡、是謂人才無高下也。稟性受命、同一實也。命有貴賤、性有善惡。謂性無善惡、是謂人命無貴賤也。
新字:実者、人性有善有悪、猶人才有高有下也。高不可下、下不可高。謂性無善悪、是謂人才無高下也。稟性受命、同一実也。命有貴賤、性有善悪。謂性無善悪、是謂人命無貴賤也。
書き下し
実は、人の性に善有り悪有るは、猶お人の才に高き有り下き有るがごとし。高きは下くすべからず、下きは高くすべからず。性に善悪無しと謂わば、是れ人の才に高下無しと謂うなり。性を稟け命を受くるは、同一の実なり。命に貴賤有り、性に善悪有り。性に善悪無しと謂わば、是れ人の命に貴賤無しと謂うなり。
現代語訳
実のところ、人の性に善と悪があるのは、人の才に高いものと低いものがあるのと同じです。高いものを低くすることはできず、低いものを高くすることもできません。性に善悪はないと言うなら、それは人の才に高低はないと言うのと同じです。性を受けることと命を受けることは、同じ実質のものです。命に貴賤があるように、性には善悪があります。性に善悪はないと言うなら、それは人の命に貴賤はないと言うのと同じです。
解説
孟子の性善、荀子の性悪、董仲舒や劉向の説を一つずつ検討したあとで、王充が自説をまとめる箇所です。人の性には生まれつきの差があり、才能の高低と同じく、教えても動かせない部分があると見ます。人間観としては厳しく、成立当時の運命論の色も濃いので、そのまま受け取る必要はありません。それでも、人には気質や得手不得手の差が確かにあるという前提から育成や配置を考える視点は、今も役立ちます。全員を同じ型に当てはめる前に、まず個々の資質を見極める姿勢につながります。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
性善悪人才高下命貴賤稟性
関連する章句
-
『呻吟語』内篇・談道・善は性なり、性は未だ必ずしも善ならず善は性なり、性は未だ必ずしも善ならず。秤錘は鐵なるも、鐵は秤錘ならず。或るひと曰く、「孟子性善を道ふは、與に非ざるか」と。曰く、「余の言ふ所は、孟子の言なり。孟子は耳目口鼻四肢の欲を以て性と為す。此の性善なるか否か」と。天に自ら兩種の天有り。理道の天有り、氣數の天有り。故に之を人に賦するに、義理の性有り、氣質の性有り。二天は皆な太極より出づ。理道の天は是れ先天、未だ陰陽五行を著けざる以前、純善にして惡無し。氣數の天は是れ後天、陰陽五行に落つるの後、善有り惡有り。孟子の性善を道ふは、只だ個の德性を言ふのみ。
-
論衡・『論衡』本性篇第十三・中くらいの人は習いで決まる善悪に分かつ無く、推し移すべき者は、中人を謂うなり。不善不悪にして、教えを須ちて成る者なり。故に孔子曰く、「中人以上は以て上を語るべきなり、中人以下は以て上を語るべからざるなり」と。告子の決水を以て喩うるは、徒だ中人を謂うのみ、極善極悪を指さざるなり。孔子曰く、「性は相い近きなり、習えば相い遠きなり」と。夫れ中人の性は、習う所に在り。善を習えば善を為し、悪を習えば悪を為すなり。極善極悪に至りては、復た習いに在らず。
-
荀子・性悪篇孟子曰く、「今(いま)人の性は善なり、將(まさ)に皆(みな)其の性を失喪(しっそう)せんとするが故なり」と。曰く、是(かく)の若(ごと)くんば則ち過(あやま)てり。今人の性、生まれながらにして其の朴(ぼく)を離れ、其の資(し)を離るれば、必ず失いて之を喪(うしな)わん。此れを用て之を観れば、然らば則ち人の性の悪なるは明らかなり。所謂(いわゆる)性善なる者は、其の朴を離れずして之を美とし、其の資を離れずして之を利とするなり。夫の資朴の美に於(お)ける、心意の善に於けるをして、夫の以て見るべきの明の目を離れず、以て聴くべきの聡の耳を離れざるが若くならしめん、故に目明らかにして耳聡しと曰うなり。今人の性、飢えては飽かんことを欲し、寒くしては煖(あたた)かならんことを欲し、労しては休まんことを欲す。此れ人の情性なり。今人、長(ちょう)を見て敢えて先に食らわざる者は、將に讓る所有らんとすればなり。労して敢えて息(いこ)わんことを求めざる者は、將に代わる所有らんとすればなり。夫れ子の父に讓り、弟の兄に讓り、子の父に代わり、弟の兄に代わる、此の二行なる者は、皆(みな)性に反(そむ)きて情に悖(もと)るなり。然り而(しこ)うして孝子の道、礼義の文理なり。故に情性に順えば則ち辞讓せず、辞讓すれば則ち情性に悖る。此れを用て之を観れば、人の性の悪なるは明らかなり、其の善なる者は偽なり。
-
荀子・性悪篇故に善く古(いにしえ)を言う者は、必ず今に節(せつ)有り。善く天を言う者は、必ず人に徴(ちょう)有り。凡そ論ずる者は其の辨合(べんごう)有り、符験(ふけん)有るを貴ぶ。故に坐して之を言えば、起ちて設(もう)くべく、張りて施行すべし。今孟子曰く、「人の性は善なり」と。辨合符験無く、坐して之を言い、起ちて設くべからず、張りて施行すべからず。豈(あ)に過つこと甚だしからずや。故に性善ならば則ち聖王を去り、礼義を息(や)めん。性悪ならば則ち聖王に与(くみ)し、礼義を貴ばん。故に檃栝(いんかつ)の生ずるは、枸木(こうぼく)の為なり。縄墨(じょうぼく)の起こるは、直(なお)からざるが為なり。君上を立て、礼義を明らかにするは、性の悪なるが為なり。此れを用て之を観れば、然らば則ち人の性の悪なるは明らかなり、其の善なる者は偽なり。
-
『弁名』性情才孟子の性善も、亦た子思の意のみ。其の「堯の服を服し、堯の言を誦し、堯の行を行へば、是れ堯のみ」と曰ふを観れば、則ち所謂人皆以て堯舜と為るべしとは、亦た聖人学びて至るべしと謂ふに非ず。「仁義礼智心に根ざす」と曰へば、則ち所謂性善も、亦た人の性皆聖人と同じと謂ふに非ず。祇だ告子の杞柳の喩の如きは、其の説甚だ美なり。湍水の喩も、亦た人の性の善く移るを言ふ。孟子乃ち極言して之を折き、以て内外の説を立つ。是れ其の弁を好むの甚だしき、遂に宋儒の謬を基す。其の荀子の性悪と、皆門戸を立つるの説、一端を言ひて一端を遺す者なり。子雲の善悪混、退之の性に三品有り、豈に理に悖らんや。蘇子瞻の善悪無しに至りては、則ち仏氏の意なり。欧陽子謂ふ、性は聖人の先にする所に非ずと。卓見なるかな。
-
『呻吟語』内篇・性命・義理の性は善有りて惡無し虞廷は專ら性善を言はず、曰く「人心惟れ危く、道心惟れ微なり」と。或ひと曰く「人心は性に非ず」と。曰く、「性に非ずとするも可なり。亦た是れ陰陽五行の化生ならずや」と。六經も專ら性善を言はず、曰く「惟れ皇上帝、衷を下民に降し、厥に恒性有り」と。又曰く「天は蒸民を生じ欲有り、主無ければ乃ち亂る」と。孔子も專ら性善を言はず、曰く「之を繼ぐ者は善なり、之を成す者は性なり」と。又曰く「性は相近きなり」「惟だ上智と下愚とは移らず」と。才めて相近しと說けば、便ち是れ一個ならず。相遠きは相近きより脚を起こす。子思も專ら性善を言はず、曰く「道を修むる、之を教と謂ふ」と。性皆善ならば、道胡ぞ修む可けんや。孟子も專ら性善を言はず、曰く「聲色・臭味・安佚は性なり」と。或ひと曰く「這の性は是れ好性なり」と。曰く、「好性ならば如何ぞ君子謂はざる」と。又曰く「心を動かし性を忍ぶ」と。善性豈に忍ぶ可けんや。犬の性、牛の性、豈に性に非ずや。犬・牛の性も、亦た仁・義・禮・智・信の性ならんや。細かに之を推さば、犬の性は猶ほ犬の性のごとく、牛の性は猶ほ牛の性のごときか。周茂叔も專ら性善を言はず、曰く「五性相感じて善惡分かれ、萬事出づ」と。又曰く「幾は善惡なり」と。程伯淳も專ら性善を言はず、曰く「惡も亦た之を性と謂はざる可からず」と。大抵性善を言ふ者は、義理を主として氣質を言はず。蓋し孟子の諸家を折くに自りて始まる。後來の諸儒遂に此の說を主として敢へて異同せず、是れ未だ天地萬物の情を觀ざるなり。義理は固より是れ天賦なり、氣質も亦た豈に人の為ならんや。眾人を論ずる無かれ、即ち堯舜禹湯文武周孔も、豈に一樣の氣質ならんや。愚僭かに為に之を說きて曰く、「義理の性は、善有りて惡無し。氣質の性は、善有り惡有り。氣質も亦た天の人に命じて生と俱に生ずる者なり、之を性と謂はざる可けんや。程子云ふ、『性を論じて氣を論ぜざれば備はらず、氣を論じて性を論ぜざれば明らかならず』と。性と氣とを分かちて兩項と作さば、便ち透徹せず。張子は善を以て天地の性と為し、清濁純駁を氣質の性と為す、支離なるを覺ゆるに似たり。其の實、天地は只だ是れ一個の氣、理は氣の中に在り、萬物に賦して、方めて性を以て言ふ。故に性の字は生に從ひ心に從ふ、生有るの心を言ふなり。設使ひ氣質無くんば、只だ是れ一個の德性のみ、人人都て是れ生知の聖人ならん。千古の聖賢の千言萬語、教化刑名は都て是れ多かりし底なり、何ぞ苦しむ所ありて此くのごとくならんや。這れ都て是れ氣質を降伏し、德性を扶持するなり。案を此に立て、千百世の後の之を駁するを俟つ」と。