慎思録 / 巻之二
董子曰。性者生之質。是氣質之謂。可爲言性之本義也。葢性者一也。然有以本然言者。有以氣質言者。夫子言性相近者。雜乎氣質而言之。葢氣禀言性者。是性之本義也。本然之性。言理之一也。氣質之性。言禀氣之有萬殊也。氣質之本然者理也。孟子言性善。乃言性之本然也。天下古今之性。其本然者。其理一也。故程子曰。性即理也。理是性之本然也。荀楊以下不知性之本然。所以有異論也。故程子直指性爲理。是言性之本然。即理也。所以明性之爲善也。雖然本然之性。亦自在氣質之中。而爲氣質之本然。非別有一物而爲本然之性。人豈有二性也。譬諸水。水之有淸濁純雜者。猶氣質也。其淸者。水之本然也。故水之本然。亦在水之氣質之中。程子曰。生之謂性。性即氣。氣即性。生之謂也。是指氣質而言性。最爲明白。孟子稱性善。惟於氣質之中言其本然也。非有二性。宋季諸儒。以氣質之性天地之性。別而言之。是有二性也。非通論也。
新字:董子曰。性者生之質。是気質之謂。可為言性之本義也。葢性者一也。然有以本然言者。有以気質言者。夫子言性相近者。雑乎気質而言之。葢気禀言性者。是性之本義也。本然之性。言理之一也。気質之性。言禀気之有万殊也。気質之本然者理也。孟子言性善。乃言性之本然也。天下古今之性。其本然者。其理一也。故程子曰。性即理也。理是性之本然也。荀楊以下不知性之本然。所以有異論也。故程子直指性為理。是言性之本然。即理也。所以明性之為善也。雖然本然之性。亦自在気質之中。而為気質之本然。非別有一物而為本然之性。人豈有二性也。譬諸水。水之有清濁純雑者。猶気質也。其清者。水之本然也。故水之本然。亦在水之気質之中。程子曰。生之謂性。性即気。気即性。生之謂也。是指気質而言性。最為明白。孟子称性善。惟於気質之中言其本然也。非有二性。宋季諸儒。以気質之性天地之性。別而言之。是有二性也。非通論也。
書き下し
董子曰く、性は生の質なり、と。是れ気質の謂ひにして、性を言ふの本義と為すべし。蓋し性は一なり。然れども本然を以て言ふ者有り、気質を以て言ふ者有り。夫子の性相近しと言ふ者は、気質を雑へて之を言ふ。蓋し気禀もて性を言ふ者は、是れ性の本義なり。本然の性は、理の一なるを言ふなり。気質の性は、禀気の万殊有るを言ふなり。気質の本然なる者は理なり。孟子の性善を言ふは、乃ち性の本然を言ふなり。天下古今の性、其の本然なる者は、其の理一なり。故に程子曰く、性は即ち理なり、と。理は是れ性の本然なり。荀楊以下は性の本然を知らず。異論有る所以なり。故に程子直ちに性を指して理と為す。是れ性の本然は即ち理なるを言ふなり。性の善為るを明らかにする所以なり。然りと雖も本然の性も、亦た自ら気質の中に在りて、気質の本然為り。別に一物有りて本然の性と為るに非ず。人豈に二性有らんや。諸を水に譬ふれば、水の清濁純雑有る者は、猶ほ気質のごときなり。其の清き者は、水の本然なり。故に水の本然も、亦た水の気質の中に在り。程子曰く、生之を性と謂ふ。性は即ち気、気は即ち性、生の謂ひなり、と。是れ気質を指して性を言ふ。最も明白と為す。孟子の性善を称するは、惟だ気質の中に於て其の本然を言ふなり。二性有るに非ず。宋季の諸儒は、気質の性と天地の性とを以て、別けて之を言ふ。是れ二性有るなり。通論に非ざるなり。
現代語訳
董子(董仲舒)は「性とは生まれつきの質である」と言いました。これは気質のことであり、性を言う本来の意味とすべきです。思うに性は一つです。しかし本然として言う場合と、気質として言う場合があります。孔子が「性は相近い」と言ったのは、気質を交えて言ったのです。思うに気の受け方で性を言うのが、性の本来の意味です。本然の性とは、理が一つであることを言います。気質の性とは、受けた気に万の違いがあることを言います。気質の本然が理です。孟子が性善を言ったのは、性の本然を言ったのです。天下古今の性は、その本然においては理が一つです。だから程子は「性はすなわち理である」と言いました。理が性の本然です。荀子や揚雄以下は性の本然を知らなかったので、異論があったのです。だから程子はじかに性を指して理としました。これは性の本然がすなわち理であることを言い、性が善であることを明らかにしたのです。とはいえ、本然の性もまたおのずと気質の中にあって、気質の本然となっています。別に一つの物があって本然の性となっているのではありません。人にどうして二つの性がありましょう。水にたとえれば、水に清い濁る、純粋か混じり物があるかの違いがあるのは、気質のようなものです。その清いものが水の本然です。だから水の本然もまた、水の気質の中にあります。程子は「生まれつきを性という。性はすなわち気、気はすなわち性で、生まれつきのことである」と言いました。これは気質を指して性を言ったもので、最も明白です。孟子が性善を称えたのも、ただ気質の中でその本然を言っただけで、二つの性があるのではありません。宋末の儒者たちは、気質の性と天地の性とを分けて言いました。これでは二つの性があることになります。広く通じる議論ではありません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之六性は一なり。本然を以て言ふ者有り、禀受する所を以て言ふ者有り。本然を以て言ふ者は、易の所謂一陰一陽之を道と謂ふ、之を継ぐ者は善なり、之を成す者は性なり。中庸に曰く、天の命之を性と謂ひ、性に率ふ之を道と謂ふ。孟子の性善を言ふ。是れ皆本然を言ふなり。蓋し天地の理は、本自ら善なり。是を以て人の禀性は、其の本善ならざる有ること無し。張子之を天地の性と謂ふ。是れ理を以て言ふ。故に程子曰く、性は即ち理なりと。蓋し本然の性は天命の在る所なり。禀受する所を以て言ふ者有り。人生の初め、陰陽の気を禀くるに、清濁厚薄純駁偏正の同じからざる有り。人の禀受する所、偶然として各異なること此くの如きなり。夫子曰く、性相近しと。孟子曰く、食色は性なりと。又曰く、形色は天性なりとは、此れ皆禀受する所を以て言ふ。故に董子曰く、性は生の質なりと。是れ程張二子の所謂気質の性是れなり。其の禀くる所万殊なり。蓋し性の字は心に従ひ生に従ふ。故に生質を以て言ふ者は、便ち性の字の正訓なり。是れ性の本義なり。性を以て理と為す者は、其の本然を言ふのみ。性の字の正訓に非ざるなり。羅整菴、理一分殊を以て性を説きて、天地気質を分かたず。先正の成説と稍異なると雖も、発明する所有りと謂ふべし。蓋し本然なる者は理一なり。天下の人の禀くる所皆一なり。気質なる者は分殊なり。衆人の禀くる所、各同じからず。羅氏の此の説、後に出づる者は巧なりと謂ふべし。天下の事、漸を以て開くる者、此の類なり。
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『慎思録』巻之四気質とは、何を謂ふや。人は天の気と地の質とを受けて生ず。其の天の気を受くるに、陰陽清濁の異有り。其の地の質を禀くるに、剛柔純駁の殊有り。気と質と、二者之を性と謂ふ。宋儒之を性と謂はずして、気質と謂ふは何ぞや。蓋し性の本然に非ざるを以てなり。故に名を異にするのみ。然れども気質の外に、本然の性有るに非ざるなり。孟子の性善と言ふ者は、其の気質の本然の理を指して、之を性と謂ふなり。
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伝習録・答周道通書来書に云う、「程子の『人生まれて静なる以上は説くを容れず。才かに性を説かば、便ち已に是れ性に非ず』を引く有り。何の故に説くを容れざるか。何の故に是れ性に非ざるか。晦庵、答えて云う、『説くを容れざる者は、未だ性の言うべき有らず。是れ性に非ざる者は、已に気質の雑わり無き能わざるなり』と。二先生の言、皆な未だ暁る能わず。毎に書を看て此に至れば、輒ち一惑と為る。請い問う」と。「生を之れ性と謂う」の「生」の字は即ち是れ「気」の字なり。猶お「気は即ち是れ性なり」と言うがごときなり。気は即ち是れ性なれば、「人生まれて静なる以上は説くを容れず」。才かに「気は即ち是れ性」と説かば、即ち已に一辺に落在す。是れ性の本原に非ざるなり。孟子の「性善」は、是れ本原の上より説く。然れども性善の端は、須らく気の上に在りて始めて見得べし。若し気無くんば、亦た見るべき無し。惻隠・羞悪・辞譲・是非は即ち是れ気なり。程子謂う、「性を論じて気を論ぜざれば、備わらず。気を論じて性を論ぜざれば、明らかならず」と。亦た是れ学者の各々一辺を認むるが為に、只だ此くの如く説くを得たり。若し自性を見得て明白なる時は、気は即ち是れ性、性は即ち是れ気なり。原と性・気の分かつべき無きなり。
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『呻吟語』内篇・性命・義理の性は善有りて惡無し虞廷は專ら性善を言はず、曰く「人心惟れ危く、道心惟れ微なり」と。或ひと曰く「人心は性に非ず」と。曰く、「性に非ずとするも可なり。亦た是れ陰陽五行の化生ならずや」と。六經も專ら性善を言はず、曰く「惟れ皇上帝、衷を下民に降し、厥に恒性有り」と。又曰く「天は蒸民を生じ欲有り、主無ければ乃ち亂る」と。孔子も專ら性善を言はず、曰く「之を繼ぐ者は善なり、之を成す者は性なり」と。又曰く「性は相近きなり」「惟だ上智と下愚とは移らず」と。才めて相近しと說けば、便ち是れ一個ならず。相遠きは相近きより脚を起こす。子思も專ら性善を言はず、曰く「道を修むる、之を教と謂ふ」と。性皆善ならば、道胡ぞ修む可けんや。孟子も專ら性善を言はず、曰く「聲色・臭味・安佚は性なり」と。或ひと曰く「這の性は是れ好性なり」と。曰く、「好性ならば如何ぞ君子謂はざる」と。又曰く「心を動かし性を忍ぶ」と。善性豈に忍ぶ可けんや。犬の性、牛の性、豈に性に非ずや。犬・牛の性も、亦た仁・義・禮・智・信の性ならんや。細かに之を推さば、犬の性は猶ほ犬の性のごとく、牛の性は猶ほ牛の性のごときか。周茂叔も專ら性善を言はず、曰く「五性相感じて善惡分かれ、萬事出づ」と。又曰く「幾は善惡なり」と。程伯淳も專ら性善を言はず、曰く「惡も亦た之を性と謂はざる可からず」と。大抵性善を言ふ者は、義理を主として氣質を言はず。蓋し孟子の諸家を折くに自りて始まる。後來の諸儒遂に此の說を主として敢へて異同せず、是れ未だ天地萬物の情を觀ざるなり。義理は固より是れ天賦なり、氣質も亦た豈に人の為ならんや。眾人を論ずる無かれ、即ち堯舜禹湯文武周孔も、豈に一樣の氣質ならんや。愚僭かに為に之を說きて曰く、「義理の性は、善有りて惡無し。氣質の性は、善有り惡有り。氣質も亦た天の人に命じて生と俱に生ずる者なり、之を性と謂はざる可けんや。程子云ふ、『性を論じて氣を論ぜざれば備はらず、氣を論じて性を論ぜざれば明らかならず』と。性と氣とを分かちて兩項と作さば、便ち透徹せず。張子は善を以て天地の性と為し、清濁純駁を氣質の性と為す、支離なるを覺ゆるに似たり。其の實、天地は只だ是れ一個の氣、理は氣の中に在り、萬物に賦して、方めて性を以て言ふ。故に性の字は生に從ひ心に從ふ、生有るの心を言ふなり。設使ひ氣質無くんば、只だ是れ一個の德性のみ、人人都て是れ生知の聖人ならん。千古の聖賢の千言萬語、教化刑名は都て是れ多かりし底なり、何ぞ苦しむ所ありて此くのごとくならんや。這れ都て是れ氣質を降伏し、德性を扶持するなり。案を此に立て、千百世の後の之を駁するを俟つ」と。
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『呻吟語』内篇・談道・善は性なり、性は未だ必ずしも善ならず善は性なり、性は未だ必ずしも善ならず。秤錘は鐵なるも、鐵は秤錘ならず。或るひと曰く、「孟子性善を道ふは、與に非ざるか」と。曰く、「余の言ふ所は、孟子の言なり。孟子は耳目口鼻四肢の欲を以て性と為す。此の性善なるか否か」と。天に自ら兩種の天有り。理道の天有り、氣數の天有り。故に之を人に賦するに、義理の性有り、氣質の性有り。二天は皆な太極より出づ。理道の天は是れ先天、未だ陰陽五行を著けざる以前、純善にして惡無し。氣數の天は是れ後天、陰陽五行に落つるの後、善有り惡有り。孟子の性善を道ふは、只だ個の德性を言ふのみ。
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『慎思録』巻之一宋儒は気質の性と天地の性とを以て、分拆して之を言ふ。此れ学者の暁り易きが為なり。其の実人に二性無し。気質の本然、即ち是れ天地の性のみ。性とは本是れ気質の謂なり。朱子曰く、心を公にせざるの人は、書を読むこと能はずと。信なるかな斯の言や。蓋し心を公にせざるの人は、其の心偏邪多し。力学読書すと雖も、其の見る所平正ならず、常に一己の私に徇ひて、之を主張す。是を以て正理を得ること能はず、見る所差多し。書を読むこと能はざる所以なり。