初学訓 / 巻之五
一古人の神にいのりしは、君父のために祈り、又、わがあやまりを改め善に遷りて、心に誠あり、敬あり、其上、禮正しくて、祭るべき正神にいのりし故、其福をうけたり。理もなく禮もなく、祈るまじき神にへつらひ祈りしにあらず。われに預らずして、祭るまじき社を淫祠といふ。淫祠は福なしといへり。家を守る神にあらざれば、祈りても利生なしとなり。わが君につかへずして、他の君につかふるが如し。道にかなひて、いのるべき神に祈らば、其驗有りなん。道なくて祈らば、神は非禮をうけ給はざれば、祈るとも驗あるべからず。
新字:一古人の神にいのりしは、君父のために祈り、又、わがあやまりを改め善に遷りて、心に誠あり、敬あり、其上、礼正しくて、祭るべき正神にいのりし故、其福をうけたり。理もなく礼もなく、祈るまじき神にへつらひ祈りしにあらず。われに預らずして、祭るまじき社を淫祠といふ。淫祠は福なしといへり。家を守る神にあらざれば、祈りても利生なしとなり。わが君につかへずして、他の君につかふるが如し。道にかなひて、いのるべき神に祈らば、其験有りなん。道なくて祈らば、神は非礼をうけ給はざれば、祈るとも験あるべからず。
書き下し
一古人の神にいのりしは、君父のために祈り、又、わがあやまりを改め善に遷りて、心に誠あり、敬あり、其上、礼正しくて、祭るべき正神にいのりし故、其福をうけたり。理もなく礼もなく、祈るまじき神にへつらひ祈りしにあらず。われに預らずして、祭るまじき社を淫祠といふ。淫祠は福なしといへり。家を守る神にあらざれば、祈りても利生なしとなり。わが君につかへずして、他の君につかふるが如し。道にかなひて、いのるべき神に祈らば、其験有りなん。道なくて祈らば、神は非礼をうけ給はざれば、祈るとも験あるべからず。
現代語訳
昔の人が神に祈ったのは、主君や父のために祈り、また自分の過ちを改め善に移って、心に誠があり敬があり、そのうえ礼が正しくて、祭るべき正しい神に祈ったので、その福を受けたのです。理もなく礼もなく、祈るべきでない神にへつらい祈ったのではありません。自分に関わりがなく、祭るべきでない社を淫祠といいます。淫祠には福がないといわれます。家を守る神でなければ、祈っても御利益はないということです。自分の主君に仕えずに、他の主君に仕えるようなものです。道にかなって、祈るべき神に祈れば、その効き目もあるでしょう。道なく祈れば、神は非礼を受けられないので、祈っても効き目はないはずです。
解説
この章句が説くこと
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