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初学訓 / 巻之二

ただ、賢人のみ、此心あるにあらず、諸人皆此心あり。是人の本心なり。只賢人のみ常に此心を失はず、さきに云へる、利養の身を養ふは輕く、義理の心を養ふは重しとは、是をいふなり。しかれば、義理は至りておもく、利養は身のため切なりといへども、義理に比ぶれば至りて輕し。こゝを以て、程子も、義に對なしといへり。無對とは、義の貴きに比ぶべきもの無しといへる意なり。天下に、義ほどおもき物なければなり。しかるに、愚者は、利養のために道をわすれ、少の利欲にめでて、大なる義理を失ふは、是、私欲の迷にて、本心にはあらず。本心を失へば、知もくらくなる。義理を捨てて、財利を取るは、たとへば、十斤の金を捨てて、一斤の銅を取るが如し。

新字:ただ、賢人のみ、此心あるにあらず、諸人皆此心あり。是人の本心なり。只賢人のみ常に此心を失はず、さきに云へる、利養の身を養ふは軽く、義理の心を養ふは重しとは、是をいふなり。しかれば、義理は至りておもく、利養は身のため切なりといへども、義理に比ぶれば至りて軽し。こゝを以て、程子も、義に対なしといへり。無対とは、義の貴きに比ぶべきもの無しといへる意なり。天下に、義ほどおもき物なければなり。しかるに、愚者は、利養のために道をわすれ、少の利欲にめでて、大なる義理を失ふは、是、私欲の迷にて、本心にはあらず。本心を失へば、知もくらくなる。義理を捨てて、財利を取るは、たとへば、十斤の金を捨てて、一斤の銅を取るが如し。

書き下し

ただ、賢人のみ、此心あるにあらず、諸人皆此心あり。是人の本心なり。只賢人のみ常に此心を失はず、さきに云へる、利養の身を養ふは軽く、義理の心を養ふは重しとは、是をいふなり。しかれば、義理は至りておもく、利養は身のため切なりといへども、義理に比ぶれば至りて軽し。ここを以て、程子も、義に対なしといへり。無対とは、義の貴きに比ぶべきもの無しといへる意なり。天下に、義ほどおもき物なければなり。しかるに、愚者は、利養のために道をわすれ、少の利欲にめでて、大なる義理を失ふは、是、私欲の迷にて、本心にはあらず。本心を失へば、知もくらくなる。義理を捨てて、財利を取るは、たとへば、十斤の金を捨てて、一斤の銅を取るが如し。

現代語訳

ただ賢人だけにこの心があるのではなく、すべての人にこの心があります。これが人の本心です。ただ賢人だけが常にこの心を失わないのです。先に述べた、利養で身を養うことは軽く、義理で心を養うことは重いとは、このことをいうのです。そうであれば、義理はきわめて重く、利養は身のために切実であるといっても、義理に比べればきわめて軽い。このため程子も「義に対なし」と言いました。対なしとは、義の貴さに比べられるものがないという意味です。天下に義ほど重いものはないからです。それなのに、愚かな者が利養のために道を忘れ、わずかな利欲に心ひかれて大きな義理を失うのは、私欲の迷いであって本心ではありません。本心を失えば、知恵も暗くなります。義理を捨てて財利を取るのは、たとえば十斤の金を捨てて一斤の銅を取るようなものです。

解説

義を重んじる心は賢人だけでなく誰にでもあり、それが人の本心だと益軒は言います。朱子学の性善説に立つ考えです。それなのに人が利に走るのは、本心が私欲で曇るからだというのです。「十斤の金を捨てて一斤の銅を取る」という喩えは、義を捨てて利を取ることの損を鮮やかに示します。不正で一時の利益を得ても、失う信用はその何倍にもなります。目先の小さな得に心を奪われているとき、自分が何を手放しているのかを考えさせる一節です。

この章句が説くこと

義本心私欲程子利

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