樵談治要抄録 / 祭祀は万民のため
廿二祉に定められて後は不增不減也、昔は太極殿に行幸有て、その使を發遣せられしかども、太極殿なきによりて、神祇官にてをこなはるゝ也、其後諸祉の祭をの〱上卿辨など參向してとりをこなふ、其所〱月日支干などは、年中行事にみえたるべし、中にも六月十二月の月次の祭、九月十一日の例幣、十一月の新嘗會は、四度の幣といひて、伊勢太神宮へ王氏、卜部、中臣、忌部の四姓の使をたてられて、とりわき乘日の御神事など有て、嚴重の祭也、代々の聖主はいづれも我御身のためとは思ひ給はず、萬民のために、かくのごとき祭などを定めさせ給へる也、神明も由緒なき祭をばうけ給はず、天子は百神の主なりと申せば、日本國の神祇は皆一人につかさどり給ふ、次には天下主領の大將軍をまもり給べし、諸國の神祉は又その國の國司守護地頭に屬し給へるによりて、祈年祭の二千餘座をば國司につけらるゝなり、又神は我子孫の祭をとりわき受給ふによりて、諸祉の祭の使には、神の御子孫をたづね用ひらるゝなり、石清水の使には源家の人、春日の使には藤氏、北野へは菅氏を用ひらる、其人なき時は、他姓をもさゝるゝ也、八所御靈と申は、
新字:廿二祉に定められて後は不增不減也、昔は太極殿に行幸有て、その使を発遣せられしかども、太極殿なきによりて、神祇官にてをこなはるゝ也、其後諸祉の祭をの〱上卿弁など参向してとりをこなふ、其所〱月日支干などは、年中行事にみえたるべし、中にも六月十二月の月次の祭、九月十一日の例幣、十一月の新嘗会は、四度の幣といひて、伊勢太神宮へ王氏、卜部、中臣、忌部の四姓の使をたてられて、とりわき乗日の御神事など有て、厳重の祭也、代々の聖主はいづれも我御身のためとは思ひ給はず、万民のために、かくのごとき祭などを定めさせ給へる也、神明も由緒なき祭をばうけ給はず、天子は百神の主なりと申せば、日本国の神祇は皆一人につかさどり給ふ、次には天下主領の大将軍をまもり給べし、諸国の神祉は又その国の国司守護地頭に属し給へるによりて、祈年祭の二千余座をば国司につけらるゝなり、又神は我子孫の祭をとりわき受給ふによりて、諸祉の祭の使には、神の御子孫をたづね用ひらるゝなり、石清水の使には源家の人、春日の使には藤氏、北野へは菅氏を用ひらる、其人なき時は、他姓をもさゝるゝ也、八所御霊と申は、
書き下し
廿二祉に定められて後は不增不減也、昔は太極殿に行幸有て、その使を發遣せられしかども、太極殿なきによりて、神祇官にてをこなはるゝ也、其後諸祉の祭をの〱上卿辨など參向してとりをこなふ、其所〱月日支干などは、年中行事にみえたるべし、中にも六月十二月の月次の祭、九月十一日の例幣、十一月の新嘗會は、四度の幣といひて、伊勢太神宮へ王氏、卜部、中臣、忌部の四姓の使をたてられて、とりわき乘日の御神事など有て、嚴重の祭也、代々の聖主はいづれも我御身のためとは思ひ給はず、萬民のために、かくのごとき祭などを定めさせ給へる也、神明も由緒なき祭をばうけ給はず、天子は百神の主なりと申せば、日本國の神祇は皆一人につかさどり給ふ、次には天下主領の大將軍をまもり給べし、諸國の神祉は又その國の國司守護地頭に屬し給へるによりて、祈年祭の二千餘座をば國司につけらるゝなり、又神は我子孫の祭をとりわき受給ふによりて、諸祉の祭の使には、神の御子孫をたづね用ひらるゝなり、石清水の使には源家の人、春日の使には藤氏、北野へは菅氏を用ひらる、其人なき時は、他姓をもさゝるゝ也、八所御靈と申は、
現代語訳
二十二社に定められた後は、増えも減りもしません。昔は太極殿に天皇が行幸されて、その使者を発遣されましたが、太極殿がなくなったので、神祇官で行われます。その後、諸社の祭りには、それぞれ上卿や弁などが参向して執り行います。それぞれの場所や月日、干支などは年中行事に見えているでしょう。中でも六月・十二月の月次祭、九月十一日の例幣、十一月の新嘗会は四度の幣と言い、伊勢の太神宮へ王氏・卜部・中臣・忌部の四姓の使者を立て、特に乗日の御神事などがあって、厳重な祭りです。代々の聖主は、いずれも自分の身のためとはお思いにならず、万民のためにこのような祭りなどをお定めになったのです。神明も由緒のない祭りはお受けにならず、天子は百神の主であると申しますので、日本国の神祇はみな天子お一人が司られます。次には天下の主領である大将軍がお守りになるべきです。諸国の神社はまたその国の国司・守護・地頭に属されているので、祈年祭の二千余座は国司に付けられるのです。また神は自分の子孫の祭りを特にお受けになるので、諸社の祭りの使者には、神の御子孫を探して用いられます。石清水の使いには源氏の人、春日の使いには藤原氏、北野へは菅原氏を用います。その人がいない時は、他の姓をあてることもあります。八所御霊と申すのは、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『新論』國體上故に論語の篇末、堯舜禹の授受を叙ぶれば、則ち天の暦数を言ひ、湯の桀を伐つには則ち曰く、「簡ぶこと帝の心に在り」と。周の重んずる所の民食喪祭も、亦皆天を奉じ祀を慎むなり。故に礼記に曰く、「凡そ天下九州の民に在る者は、咸其の力を献じて以て皇天上帝・社稷・寝廟・山林・名川の祀に共せざるは無し」と。古者民をして鬼神を敬し祭祀を奉ぜしむる所以の者、亦見るべし。蓋し神州の漢土と、風気素より同じくして、人情も亦甚だ相類す。故に教を設くるの意、甚だ相似たること、亦此くの如きなり。)
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『慎思録』巻之三母没すれば則ち父祭主と為るは、古の礼なり。今や父祭礼を知らずんば、則ち其の子祭主と為りて、其の母を祭るべきか。然らずんば則ち祭らずして子道を廃す。之を為すこと如何。苟も父祭主と為らずんば、則ち母の神主に於て、当に之を書すること如何すべき。恐らくは父在す時、孝子某奉祀と書し難からん。二者請ふ父に問ひ、時宜を斟酌して、惟れ可なり。
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『新論』國體上御禊は潔を致す所以なり。天皇徒跣して警蹕せざるは、敬の至りなり。日蔭鬘・帛御衣は、至敬にして文無きなり。天祖位を伝ふるの日に当り、天児屋をして帝命を出納せしめ、天太玉をして百事に供奉せしむ。児屋の後を中臣氏と為し、太玉の後を斎部氏と為す。故に祭の日、中臣は天神の寿詞を奏し、斎部は神璽の鏡剣を奉る。累世奕葉、必ず当初の儀に仍る。猶ほ新たに命を天祖に受くるがごときなり。(天祖、児屋・太玉等五部の神をして皇孫に侍せしめ、神籬を建て、以て皇孫を護衛すること、猶ほ天上の儀のごとし。神武帝天下を平らぐるや、亦神籬を建て、児屋の孫種子・太玉の孫天富をして、鏡剣を奉じ幣帛を陳ねしむ。而して歴世遵奉する所、是の儀に非ざるは莫し。崇神帝の天祖を笠縫に祭るに及び、石凝姥嘗て天祖に事へて鏡を鋳、目一箇作金者と為りしを以て、故に斎部に命じ、二氏の後を率ゐて、鏡剣を摸造し、以て殿内に奉安せしむ。即ち践祚の日に斎部の奉る所の物是れなり。其の永く旧物を存し、敢へて失墜せざること是くの如し。)
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『新論』國體上昔者、天祖肇めて鴻基を建て、位は即ち天位、徳は即ち天徳、以て天業を経綸し、細大の事、一として天に非ざる者無し。徳を玉に比し、明を鏡に比し、威を剣に比し、天の仁を体し、天の明に則り、天の威を奮ひ、以て万邦を照す。天下を以て皇孫に伝ふるに迨び、手づから三器を授けて、以て天位の信と為し、以て天徳に象り、而して天工に代り天職を治めしめ、然る後之を千万世に伝ふ。天胤の尊、厳乎として其れ犯すべからず、君臣の分定まりて、大義以て明かなり。天祖の神器を伝ふるや、特に宝鏡を執りて祝して曰く、「此を視ること猶ほ吾を視るがごとくせよ」と。而して万世奉祀して、以て天祖の神と為す。聖子神孫、宝鏡を仰ぎて影を其の中に見る。見る所の者は即ち天祖の遺体にして、視ること猶ほ天祖を視るがごとし。是に於てか盥薦の間、神人相感じて、以て已むべからず。則ち其の追遠申孝、敬身修徳、亦豈已むを得んや。父子の親敦くして、至恩以て隆し。
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『春秋左氏伝』桓公十四年 御廩の火災と宋の報復十四年春、曹に會す。曹人餼を致す、禮なり。夏、鄭の子人來りて盟を尋め、且つ曹の會を修む。秋八月壬申、禦廩災す。乙亥、嘗す。書するは、害せざればなり。冬、宋人諸侯を以て鄭を伐つ。宋の戰に報ゆるなり。渠門を焚き、入りて大逵に及ぶ。東郊を伐ち、牛首を取る。大宮の椽を以て歸り、盧門の椽と為す。
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論語・八佾篇子曰く、『禘は既に灌より往くもの、吾これを観るを欲せざるなり。』

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