尚武論 / 武国日本と、風土に合った道
我邦武國也。西土文國也。文國尚文。武國尚武。固其所矣。何以言之。夫上古數百年之間。逆臣不凌。外寇不入。上安下平。四方無事。其治孰與堯舜之世。當時儒道未入。佛法未興。何以然乎。唯武之治耳。我邦有武。我邦自然之道也。可尚哉。何以知其然。曰瑞穗國。米粟狠戾之謂也。曰細戈千足國。武器精備之謂也。武器精。米粟足。非武國而何。又曰礒馭廬島。猶西土曰丈夫國。丈夫即武夫之稱也。曰浦安國。取外賊不能侵。四邊安寧之義也。此則此所以爲武國也。余乃以卦推之。我邦配震卦。說卦曰。震爲龍。西川求林曰。我國形有游龍之象。眞然。我邦稱丈夫。猶彼國稱君子。西土文國。其邦已主文。則以君子爲尚。自不同耳。我邦武夫。豈可以君子稱之乎哉。彼又稱我邦曰君子國。以自所尚稱之也。固不知彼之與此有別也。聖人之道順天應時。子丑寅之建正。忠質文之更尚。在彼土而古今異。宜已然。況我邦之於彼邦。相距幾百里。其風絶異。人情不同。惡獲同其道耶。君子修其敎。不易其俗。齊其政。不易其宜。故我邦之武不可廢棄也。孔子若乘桴浮于海。既在我方。則必以武爲尚。未必以文爲尚也。若拘泥西土之文。而不循國土之道。曰我學聖人之道。豈可謂之知聖人之道乎哉。聖人以禮樂治國。彼國禮樂主文制之。則我邦禮樂宜主武制之已。東涯先生曰。在今日之世。不可無今日之樂。何必襲前古之樂。以用之於今日乎。聖人有作。必能制當時之樂。使當時之人視而樂之聽而悅之。亦唯因世俗之樂。而文之焉耳。其言甚善。然未及論彼之與此有文武之異也。孔子謂韶。盡美矣。
新字:我邦武国也。西土文国也。文国尚文。武国尚武。固其所矣。何以言之。夫上古数百年之間。逆臣不凌。外寇不入。上安下平。四方無事。其治孰与堯舜之世。当時儒道未入。仏法未興。何以然乎。唯武之治耳。我邦有武。我邦自然之道也。可尚哉。何以知其然。曰瑞穂国。米粟狠戻之謂也。曰細戈千足国。武器精備之謂也。武器精。米粟足。非武国而何。又曰礒馭廬島。猶西土曰丈夫国。丈夫即武夫之称也。曰浦安国。取外賊不能侵。四辺安寧之義也。此則此所以為武国也。余乃以卦推之。我邦配震卦。説卦曰。震為竜。西川求林曰。我国形有游竜之象。真然。我邦称丈夫。猶彼国称君子。西土文国。其邦已主文。則以君子為尚。自不同耳。我邦武夫。豈可以君子称之乎哉。彼又称我邦曰君子国。以自所尚称之也。固不知彼之与此有別也。聖人之道順天応時。子丑寅之建正。忠質文之更尚。在彼土而古今異。宜已然。況我邦之於彼邦。相距幾百里。其風絶異。人情不同。悪獲同其道耶。君子修其教。不易其俗。斉其政。不易其宜。故我邦之武不可廃棄也。孔子若乗桴浮于海。既在我方。則必以武為尚。未必以文為尚也。若拘泥西土之文。而不循国土之道。曰我学聖人之道。豈可謂之知聖人之道乎哉。聖人以礼楽治国。彼国礼楽主文制之。則我邦礼楽宜主武制之已。東涯先生曰。在今日之世。不可無今日之楽。何必襲前古之楽。以用之於今日乎。聖人有作。必能制当時之楽。使当時之人視而楽之聴而悦之。亦唯因世俗之楽。而文之焉耳。其言甚善。然未及論彼之与此有文武之異也。孔子謂韶。尽美矣。
書き下し
我が邦は武国なり。西土は文国なり。文国は文を尚び、武国は武を尚ぶ、固より其の所なり。何を以て之を言ふ。夫れ上古数百年の間、逆臣凌がず、外寇入らず、上安く下平らかに、四方事無し。其の治、堯舜の世に孰与れぞ。当時、儒道未だ入らず、仏法未だ興らず。何を以て然るか。唯だ武の治のみ。我が邦に武有るは、我が邦自然の道なり。尚ぶべきかな。何を以て其の然るを知る。曰く、瑞穂国とは、米粟狠戻の謂なり。曰く、細戈千足国とは、武器精備の謂なり。武器精しく、米粟足る。武国に非ずして何ぞ。又曰く、礒馭廬島とは、猶ほ西土の丈夫国と曰ふがごとし。丈夫は即ち武夫の称なり。曰く、浦安国とは、外賊侵す能はず、四辺安寧の義を取るなり。此れ則ち此れ武国たる所以なり。余乃ち卦を以て之を推すに、我が邦は震卦に配す。説卦に曰く、震は龍たり、と。西川求林曰く、我が国の形、游龍の象有り、と。真に然り。我が邦は丈夫と称す、猶ほ彼の国の君子と称するがごとし。西土は文国にして、其の邦已に文を主とす、則ち君子を以て尚しと為す。自づから同じからざるのみ。我が邦の武夫、豈に君子を以て之を称すべけんや。彼も又我が邦を称して君子国と曰ふは、自ら尚ぶ所を以て之を称するなり。固より彼と此と別有るを知らざるなり。聖人の道は天に順ひ時に応ず。子丑寅の建正、忠質文の更尚、彼の土に在りて古今異なる。宜しく已に然るべし。況んや我が邦の彼の邦に於けるや、相距たること幾百里、其の風絶異し、人情同じからず。悪くんぞ其の道を同じうするを獲んや。君子は其の教へを修めて其の俗を易へず、其の政を斉へて其の宜しきを易へず。故に我が邦の武は廃棄すべからざるなり。孔子若し桴に乗りて海に浮かび、既に我が方に在らば、則ち必ず武を以て尚しと為さん。未だ必ずしも文を以て尚しと為さず。若し西土の文に拘泥して国土の道に循はず、曰く、我聖人の道を学ぶ、と。豈に之を聖人の道を知ると謂ふべけんや。聖人は礼楽を以て国を治む。彼の国の礼楽は文を主として之を制す、則ち我が邦の礼楽は宜しく武を主として之を制すべきのみ。東涯先生曰く、今日の世に在りては、今日の楽無かるべからず。何ぞ必ずしも前古の楽を襲ひて以て之を今日に用ひんや。聖人作ること有らば、必ず能く当時の楽を制し、当時の人をして視て之を楽しみ、聴きて之を悦ばしめん。亦唯だ世俗の楽に因りて之を文るのみ、と。其の言甚だ善し。然れども未だ彼と此と文武の異有るを論ずるに及ばず。孔子、韶を謂ふ、美を尽くせり、
現代語訳
我が国は武の国です。中国は文の国です。文の国は文を尚び、武の国は武を尚ぶのは当然のことです。なぜそう言えるのでしょうか。上古の数百年の間、逆臣も凌ぐことなく、外敵も入らず、上は安らかに下は平らかで、四方に事なく、その治世は堯舜の世と比べてどうでしょうか。当時は儒道がまだ入らず、仏法もまだ興っていませんでした。それなのになぜそうだったのか。ただ武による治めがあっただけです。我が国に武があるのは、我が国の自然の道であり、尚ぶべきことです。なぜそうと分かるか。瑞穂国というのは、米や粟が満ち足りているという意味です。細戈千足国というのは、武器が精しく整っているという意味です。武器が精しく、米や粟が足りている。武の国でなくて何でしょうか。また礒馭廬島というのは、中国で丈夫国と言うのと同じで、丈夫とは武夫の称です。浦安国というのは、外敵が侵すことができず、四方が安寧であるという意味を取ったものです。これが武の国である理由です。私が易の卦で推すと、我が国は震の卦に当たります。説卦に「震は龍である」とあります。西川求林も「我が国の形には游龍の象がある」と言いました。まことにそのとおりです。我が国が丈夫と称するのは、あちらの国が君子と称するのと同じです。中国は文の国で、その国はすでに文を主としているので、君子を尚しとします。おのずから同じではないだけです。我が国の武夫を、どうして君子と称してよいでしょうか。あちらがまた我が国を君子国と呼ぶのは、自分たちが尚ぶものでこちらを呼んでいるのです。あちらとこちらに違いがあることを知らないのです。聖人の道は天に順い時に応じます。子・丑・寅のどの月を正月とするか、忠・質・文のどれを尚ぶか、あちらの土地でさえ古今で異なります。当然のことです。まして我が国とあちらの国とは、距たること幾百里、風俗は大いに異なり、人情も同じではありません。どうして同じ道を行えましょうか。君子はその教えを修めてもその土地の習俗を変えず、その政を整えてもその土地の宜しきを変えないものです。だから我が国の武は廃棄してはなりません。孔子がもし桴に乗って海に浮かび、我が国にいたならば、きっと武を尚しとして、必ずしも文を尚しとはしないでしょう。もし中国の文にこだわって国土の道に従わず、「私は聖人の道を学んでいる」と言うなら、どうして聖人の道を知っていると言えるでしょうか。聖人は礼楽で国を治めます。あちらの国の礼楽は文を主としてつくられたのですから、我が国の礼楽は武を主としてつくるべきです。東涯先生は言いました。「今日の世にあっては、今日の楽がなくてはならない。どうして古の楽を踏襲して今日に用いる必要があろうか。聖人が起こったなら、必ずその時代の楽をつくり、その時代の人が見て楽しみ、聴いて悦ぶようにするだろう。また、ただ世俗の楽によって、これを飾るだけである」と。この言葉は大変よいものです。ただし、あちらとこちらで文武の違いがあることまでは論じ及んでいません。孔子は韶(舜の楽)について「美を尽くしている」と言い、
解説
この章句が説くこと
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『尚武論』・文に偏る害と、封建が武を興す理存するが如く亡きが如し。天運已に改まり、聖賢の力も之を為す能はず。則ち天下已に喪乱に苦しみ、生民自づから塗炭に陥る。又別に王者の起こりて之を救ふ有るを俟つのみ。斉の桓公、未だ必ずしも純ら王道を用ひずと雖も、其の力、天子を翼戴し、天下を一匡す。則ち孔子已に其の仁を与す。蓋し試みる所有ればなり。孟子は却つて之を卑しむ。時世の異なればなり。管仲は三帰反坫の僭有れども、其の仁たるを害せず。若し其の純ならざるを以て之を廃せば、則ち孟子にも亦純ならざる者有り、宜しく廃する所に在るべし。我が邦の用ふる所の儒道は、儒の本原を究めず、変通の道を知らず、唯だ文辞章句を為すのみ。此れを以て聖人の道と為して之を朝廷に用ふれば、則ち搢紳の士は文人たるのみ。搢紳の士既に文人たれば、則ち軟弱に失はざる者幾ど希なり。悪くんぞ孔孟の道たらんや。吁、朝廷是を以て衰微不振に至る、亦悲しむべきかな。更に仏法因果応報の説を用ひて人心を蕩滌するに至り、其の邪説を以て国神を推移し、以て彼は則ち祇侫媚者なりと謂ふ。是に於いて神に賽し仏に佞し、僧を寵し巫を崇め、至らざる所無し。人事の当に務むべきを務めず、国勢奚ぞ失はざるを得んや。我が邦の上古の太平は儒と仏とに由るに非ず、別に所在有るなり。我が邦は固より武国たり、則ち武有りて国昌え、武無ければ則ち国衰ふ。国の興替は唯だ武事の盛衰に在るのみ。国柄を執る者は、宜しく真儒を用ひて武事を輔くべきのみ。古人既に文武を以て之を車の両輪、鳥の両翼に比す。唯だ文を以て武を害すること勿かれのみ。夫れ武士の国に在るは、猶ほ水の地中に在るがごとし。師の卦の象見るべし。往くとして水に非ざる莫く、至る攸として武士にして其の長を用ひざる莫し。諸侯を建てて其の国を治めしむれば、則ち国自づから興り、磐石堅固なり。武国たる所以なり。我が邦、上古は封建、中葉は郡県と為りて、国勢衰弱す。今復た封建と為れば、則ち武道自づから盛んにして、武国の名に適ふ。賀すべく悦ぶべきなり。上古は封建、中葉は郡県とは、何を以て之を言ふ。白石先生曰く、上世の制は、猶ほ三代封建の時のごとし。中世以降は、亦猶ほ漢の初め、兼ねて封建郡県の制を有つがごとし。孝徳の世に迨びて、天下尽く変じ、嬴秦郡県の制と為れり、と。昔、上世に在りて五方の国、各々君長有り、山海の間に散在し、大小強弱、相統一する能はず。神武開国の初め、其の功有るを封ず。
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