紫灘遺稿抄録 / 心得の条々・閑雅な教養が大事に備える
一の谷八島壇の浦など、いつも敗軍にて、遂に滅亡に及びしゆえ、範頼義經を、うへなくいひならはすれども、宗盛內府の愚昧にてこそ、ケ樣にはなりけれ、知盛卿など主將ならんには、義經ごときもの匹敵すべきにもあらず、さるはいかめしきあづま人のなかにも、名高き猪股小平太は、越中前司にくみし、かれ岡部六彌太は、薩摩守にとりておさへられ、武藏守は兒玉黨を井の內にくみしき、通盛三位は、某を馬よりおしおとしなど、とり〱に武技も勝れられたるが、詩歌管絃などには、いづれも優に長じ、なかにも忠度朝臣、行盛朝臣の歌、經正朝臣の琵琶、敦盛大夫の笛など、九重にもたぐひ少く長ぜられて、其名千歲の後までも香しく聞侍る、南北朝にも菊池武時の「古鄕に今宵ばかりの命ともしらでや人の吾を待らん」、小楠公の梓弓引かへさじとおもふよりなきかずにいる名をぞとゞむる」、備後三郎の天莫空勾踐。時非無范蠡。など見る度に涙こそさき立けれ、かく閑雅にありてこそ、忠にも孝にも一大事の際にあたりて、從容として死に就事もなるものなれ
新字:一の谷八島壇の浦など、いつも敗軍にて、遂に滅亡に及びしゆえ、範頼義経を、うへなくいひならはすれども、宗盛内府の愚昧にてこそ、ケ様にはなりけれ、知盛卿など主将ならんには、義経ごときもの匹敵すべきにもあらず、さるはいかめしきあづま人のなかにも、名高き猪股小平太は、越中前司にくみし、かれ岡部六弥太は、薩摩守にとりておさへられ、武蔵守は児玉党を井の内にくみしき、通盛三位は、某を馬よりおしおとしなど、とり〱に武技も勝れられたるが、詩歌管絃などには、いづれも優に長じ、なかにも忠度朝臣、行盛朝臣の歌、経正朝臣の琵琶、敦盛大夫の笛など、九重にもたぐひ少く長ぜられて、其名千歳の後までも香しく聞侍る、南北朝にも菊池武時の「古郷に今宵ばかりの命ともしらでや人の吾を待らん」、小楠公の梓弓引かへさじとおもふよりなきかずにいる名をぞとゞむる」、備後三郎の天莫空勾践。時非無范蠡。など見る度に涙こそさき立けれ、かく閑雅にありてこそ、忠にも孝にも一大事の際にあたりて、従容として死に就事もなるものなれ
書き下し
一の谷八島壇の浦など、いつも敗軍にて、遂に滅亡に及びしゆえ、範頼義經を、うへなくいひならはすれども、宗盛內府の愚昧にてこそ、ケ樣にはなりけれ、知盛卿など主將ならんには、義經ごときもの匹敵すべきにもあらず、さるはいかめしきあづま人のなかにも、名高き猪股小平太は、越中前司にくみし、かれ岡部六彌太は、薩摩守にとりておさへられ、武藏守は兒玉黨を井の內にくみしき、通盛三位は、某を馬よりおしおとしなど、とり〱に武技も勝れられたるが、詩歌管絃などには、いづれも優に長じ、なかにも忠度朝臣、行盛朝臣の歌、經正朝臣の琵琶、敦盛大夫の笛など、九重にもたぐひ少く長ぜられて、其名千歲の後までも香しく聞侍る、南北朝にも菊池武時の「古鄕に今宵ばかりの命ともしらでや人の吾を待らん」、小楠公の梓弓引かへさじとおもふよりなきかずにいる名をぞとゞむる」、備後三郎の天莫空勾踐。時非無范蠡。など見る度に涙こそさき立けれ、かく閑雅にありてこそ、忠にも孝にも一大事の際にあたりて、從容として死に就事もなるものなれ
現代語訳
一の谷、屋島、壇の浦などで、いつも敗軍となり、ついに滅亡に及んだため、(平家の)範頼・義経を、この上なく言い習わしていますが、宗盛内府の愚かさのためにこうなったのであって、知盛卿などが主将であれば、義経ごときが匹敵できるものではありません。それは、勇ましい東国の武士の中でも名高い猪俣小平太は越中前司(盛俊)と組み、かの岡部六弥太は薩摩守(忠度)に取り押さえられ、武蔵守(知盛)は児玉党を井戸の内で組み敷き、通盛三位は某を馬から押し落とし、など、それぞれ武技も優れておられたのですが、詩歌管絃などにはいずれも優れて長じ、なかでも忠度朝臣・行盛朝臣の歌、経正朝臣の琵琶、敦盛大夫の笛など、都にも類が少ないほどで、その名は千年の後まで香しく聞こえます。南北朝でも、菊池武時の「古鄕に今宵ばかりの命ともしらでや人の吾を待らん」、小楠公(楠木正行)の「梓弓引かへさじとおもふよりなきかずにいる名をぞとゞむる」、備後三郎(児島高徳)の「天は勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡無きにしも非ず」など、見るたびに涙が先に立ちます。このように閑雅であってこそ、忠にも孝にも一大事に当たって、従容として死に就くこともできるのです。
解説
この章句が説くこと
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『紫灘遺稿抄録』・心得の条々・資質があっても学問が要る例是もまた頼にたらず、小松內府重盛公のごとき、いと善き人なりけるが、其暴惡の父を練め、 天子をなくさめ奉り、一時の飢をしづめ玉ひし事などは、誰もえ及ぶ事にあらぬが、世をうらめしくおもひて、熊野に參りて、命をちゞめ玉へと祈り、宋の育王山に後世の爲とて、金を贈られし事などは、いかなる心ぞ、あはれ學問せさせられたらば、かゝるいやしき事はし玉はじ、鎌倉右大將なども、又なき明將にて、一度かまくらに入て、再たび出ずして諸將を駕御し、天下の廣きを手のうちにあつかひける、其才度量、古の人にも、をさ〱おとらぬ人なりしが、南都の大佛を再建せしに、宋國より陳和卿と申ものを招て建させ、落成の時はじめて、東よりのぼり來て、序に 朝廷を拜し、南都にて和卿に對面せんと請はれしに、和卿が、軍して人多く殺したる人に對面せんは罪ふかしといひ、逢ざりければ、强て逢てんともいはず、さめ〱となかれしとか、學問したる人ならば、我は大將軍に任じたるもの也、朝敵を討て殺すは我任なり、禮も義もしらで左樣の無禮の詞をいふべき事やあると、引出して典刑を正さるべきに、婦女子の樣に、後世の說に迷てなかれしなどは、天稟よき人に學問の力を添たらば、南山の竹に鐵を加へたるものにて、うへもなき事なり、
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『紫灘遺稿抄録』・楠子論・楠氏の死が皇統を支えたという論必ずここに泄らさん。かくの如くして然る後、始めてその志の成るを得るなり。而して子あり、孫あり、進討退衛して数世を歴て替らず、皆ここに死し、南北一統に及びて後已む。已めば則ち一の楠氏の世に遺る者なきなり。大義親を滅す、人既にこれを難しとす。而して楠氏の親を滅するは、一世に非ず、また十数人に非ず。子孫能くその志を成し、果たしてその慮る所の如し。至誠の天を貫く者に非ざるより、焉んぞかくの如く久しくして愈々盛んなるを得んや。源頼朝の覇を開くや、朝廷の権漸く失われ、北条氏継ぎてその権を攘い、而して天下の人心岐る。足利氏の反するや、朝廷馭を失うの由る所を察し、特に利を以て英雄の心を攬り、而して天下の人心渙る。人心の渙るや、その為さんと欲する者、何事か成らざらん。東宮と為らんと欲せば、東宮得べきなり。天子と為らんと欲せば、天子得べきなり。けだしその心は天子と為らんと欲するなり。その一たび天子と為らば、これに継ぐ者は織田氏、豊臣氏の如き、視て以て常と為し、また皆これを為さん。足利氏にしてこれを為さざれば、これに継ぐ者は皆曰く、天は汚すべからざるなり、天位は躋るべからざるなりと。然る後、天下の事大いに定まる。その或いはこれに継ぐ者、百世といえども知るべきなり。然れども足利氏の天子と為らざるは、その皇統を索めてこれに継ぐ者、すなわち楠氏のここに死して貳せざるに因り、而してその争うべからずして然る者のみ。孔子曰く、殷に三仁あり。箕子曰く、自ら靖んず、人各々自ら先王に献ずと。楠子と藤房・義貞も、また皆各々自らその志を行う。箕子は身を屈して道を周に伝え、楠子は親を滅して皇統を継ぎ、以て万世の道を存す。その箕子に優ること、けだし倍蓰なり。ああ、楠子の忠義は、また天壌と窮まりなき者か。
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『紫灘遺稿抄録』・楠子論・楠木正成の忠義と遺児への遺言ああ、楠子の忠義は、けだし天下に一人のみ。孤城を以て二十万の兵を破り、以て勤王の倡と為し、寡軍を以て二十倍の衆を挫き、以て臣たるの節を竭くす。則ち与らず。言の聴かれざるに及び、児を呼びて後事を託す。その意は訣別の言と謂う。これを路人に施すも、また能く肝に銘ぜん。児は稚少といえども、必ずこれを記さん。而して我が志は必ず徹せん。我が死せし後、天下の事は知るべきなり。而して足利二児の志は、実に測るべからず。然らば則ち天祖の基業、天壌と窮まりなき者、一旦にして墜ちん。これ実に悲しむべし。我すでにこれを以てここに死し、子もまたこれを以てここに死し、孫もまたこれを以てここに死し、兄弟叔姪もまたこれを以てここに死して、挙族子遺なくば、則ち彼の二児の心も、また争うべからざるを知りて、必ず皇統の継がざるべからざるを知らん。皇統の継ぐこと有れば、則ち我が志成りて、目始めて瞑するを得んのみ。行在の芳野に在るや、その近くしてこれを藩するは則ち楠氏なり。而して子あり、孫あり、或いは来犯を討ち、或いは京師を取り、神器をして賊の手に汚されざらしめ、而してここに安んずる者、四世なり。その子孫たる者すら、かつ能くす。もし楠子をして兵庫に死せずして芳野を衛らしめば、則ちその京師を復して天下の王政に復帰するは期すべきなり。而して楠子のこれを為さざるは、何ぞや。それ天命の去就は、まことに人力の為す所に非ず。元弘の始め、天これに就き、而してまたこれを去る。一たび去れば、また収むべからず。楠子これを知り、すなわち皇統に継ぐこと有れば、則ち足れりと為す。然れどもこれ、その一世の能く及ぶ所に非ず。而してその死すべからざる所に死せば、則ち子孫たる者、感奮激励し、その鬱結する所の者を以て、
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