新書 / 道德說
德者,離無而之有。故潤則腒然濁而始形矣,故六理發焉。六理所以爲變而生也,所生有理。然則物得潤以生,故謂潤德。德者變及物理之所出也。夫變者,道之頌也。道冰而爲德,神載於德。德者,道之澤也。道雖神,必載於德,而頌乃有所因,以發動變化而爲變。變及諸生之理,皆道之化也,各有條理以載於德。德受道之化,而發之各不同狀。德潤,故曰「如膏,謂之德」,「德生理,通之以六德之畢離狀」。性者,道德造物。物有形,而道德之神專而爲一氣,明其潤益厚矣。濁而膠相連,在物之中,爲物莫生,氣皆集焉,故謂之性。性,神氣之所會也。性立,則神氣曉曉然發而通行於外矣,與外物之感相應,故曰「潤厚而膠謂之性」,「性生氣,通之以曉。」
新字:徳者,離無而之有。故潤則腒然濁而始形矣,故六理発焉。六理所以為変而生也,所生有理。然則物得潤以生,故謂潤徳。徳者変及物理之所出也。夫変者,道之頌也。道冰而為徳,神載於徳。徳者,道之沢也。道雖神,必載於徳,而頌乃有所因,以発動変化而為変。変及諸生之理,皆道之化也,各有条理以載於徳。徳受道之化,而発之各不同状。徳潤,故曰「如膏,謂之徳」,「徳生理,通之以六徳之畢離状」。性者,道徳造物。物有形,而道徳之神専而為一気,明其潤益厚矣。濁而膠相連,在物之中,為物莫生,気皆集焉,故謂之性。性,神気之所会也。性立,則神気暁暁然発而通行於外矣,与外物之感相応,故曰「潤厚而膠謂之性」,「性生気,通之以暁。」
書き下し
徳は、無を離れて有に之く者なり。故に潤えば則ち腒然として濁り始めて形あり、故に六理焉に発す。六理の変と為りて生ずる所以は、生ずる所に理有ればなり。然らば則ち物は潤を得て以て生ず、故に潤徳と謂う。徳は変及び物理の出づる所なり。夫れ変は、道の頌なり。道冰りて徳と為り、神は徳に載る。徳は、道の沢なり。道は神なりと雖も、必ず徳に載せ、而して頌乃ち因る所有り、以て発動変化して変と為る。変の諸生の理に及ぶは、皆道の化なり、各おの条理有りて以て徳に載す。徳は道の化を受けて、之を発すること各おの状を同じくせず。徳は潤う、故に曰く「膏の如きを、之を徳と謂う」、「徳は理を生じ、之に通ずるに六徳の畢く離るる状を以てす」と。性は、道徳の物を造るなり。物に形有れば、道徳の神は専らにして一気と為り、其の潤いの益ます厚きを明らかにす。濁りて膠く相い連なり、物の中に在り、物を為して生ずる莫く、気皆集まる、故に之を性と謂う。性は、神気の会する所なり。性立てば、則ち神気は暁暁然として発して外に通行し、外物の感と相い応ず、故に曰く「潤厚にして膠きを、之を性と謂う」、「性は気を生じ、之に通ずるに暁を以てす」と。
現代語訳
徳は、無を離れて有へ向かうものです。そこで、うるおうと、ぼんやりと濁りが生じて形が現れ始め、六理がここに発します。六理が変となって生まれるのは、生まれるものに理があるからです。だから物はうるおいを得て生まれ、これを潤徳といいます。徳は変と物の理が出てくるところです。変とは、道の頌にあたるものです。道が凝って徳となり、霊妙な働きは徳に載ります。徳は、道のうるおいです。道は霊妙ではあっても、必ず徳に載るので、頌にも拠りどころができ、動き変化して変となります。変がもろもろの生の理に及ぶのは、すべて道の化育であり、それぞれ筋道をもって徳に載っています。徳は道の化育を受けて、それを表すとき、それぞれ姿が違います。徳はうるおいがあるので、「脂のようなものを、徳という」「徳は理を生み、六徳がすべて分かれ離れる姿によって通じる」と言います。性とは、道徳が物を造ることです。物に形があれば、道徳の霊妙な働きは専一になって一つの気となり、そのうるおいがいよいよ厚いことを示します。濁って膠のように連なり、物の中にあって、物をなして生まれるものはなく、気がみなそこに集まります。だからこれを性といいます。性は、神と気の集まるところです。性が立てば、神気ははっきりと発して外に通じ、外の物の感じと応じ合います。そこで「うるおいが厚く膠のようなものを、性という」「性は気を生み、これに通じるのは明らかさである」と言うのです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之二造化の人に於けるや、富貴爵禄を靳しまずして、独り徳を靳しむ。此れ造化靳惜に心有るに非ず、自然にして然り。故に富貴なる者は、古今常に多く、賢哲なる者は、古今常に少なし。蓋し徳は是れ天地神秀の気、純粋精美の理にして、鍾会して人身に附与する者なり。夫れ陰陽の気は、霄壌の間に充塞すと雖も、然れども清明粋美なる者は少なし。故に人の生まるる、其の清粋の気を禀受する者甚だ寡し。亦た宜ならずや。此れ君子の常に寡く、小人の常に衆き所以なり。天の命を降すや、人をして徳有りて道を知らしむる者は、是れ天の独り君子を寵異する所にして、富貴爵禄の其の生を厚くする者に百倍す。此れ君子の以て至楽と為して、富貴爵禄を願はざる所以なり。然らば則ち学者は当に貧賤不遇を憂へずして、特に学の講ぜざる、徳の修まらざるを憂ふべきのみ。
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呂氏春秋・精通③德なる者は、萬民の宰なり。月なる者は、群陰の本なり。月望なれば則ち蚌蛤實ち、群陰盈つ。月晦なれば則ち蚌蛤虚しく、群陰虧く。夫れ月、天に形われて、群陰、淵に化す。聖人、德を己に行いて、四方咸仁に飭し。
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『翁問答』上卷之末体充曰、儒門の心学をきはめずして、軍法に達し軍法をたてゝ、その名たかき大将、倭漢ともに古来多く候へば、心学のみがきなくても、軍法のまなびはなり申べく候、しかるにまづ儒門の心学をきはめてのちに軍法をまなびたるがよしと仰せられ候は不審に存候。師の曰、よきうたがひにて候、大将の才を逞じく生れたる人は、心学のみがきなくても、軍法に達し軍功をば立るといへども、その徳なきゆへに才のたくまじきに迷ひ、必ず人を殺す事を好み、不義無道のふるまひあれば、万民その毒にあたりなげき悲むによつて、終には天罰をかうぶり、其身もほろび国も必ず絶滅するものなり、その証拠はもろこしにても我朝にても、其徳なくて才のみ逞しき大将に、其身難なく子孫繁昌したる人まれなり倭漢の史書にて考へ見るべし、
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『春秋左氏伝』閔公二年 慶父、自ら縊る二年春、虢公犬戎を渭汭に敗る。舟之僑曰く、「德無くして祿あるは、殃なり。殃將に至らんとす」と。遂に晉に奔る。夏、莊公に吉禘す、速やかなるなり。初め、公の傅卜齮の田を奪ふ。公禁ぜず。秋八月辛丑、共仲卜齮をして公を武闈に賊せしむ。成季僖公を以って邾に適く。共仲莒に奔る。乃ち入りて、之を立つ。賂を以って共仲を莒に求む。莒人之を歸す。密に及び、公子魚をして請はしむ。許さず。哭して往く。共仲曰く、「奚斯の聲なり」と。乃ち縊る。閔公は、哀姜の娣叔姜の子なり。故に齊人之を立つ。共仲哀姜に通ず。哀姜之を立てんと欲す。閔公の死するや、哀姜與り知る。故に邾に孫る。齊人取りて之を夷に殺し、其の尸を以って歸る。僖公請ひて之を葬る。成季の將に生まれんとするや、桓公卜楚丘の父をして之を卜せしむ。曰く、「男なり。其の名を友と曰ひ、公の右に在らん。兩社に間はり、公室の輔と爲らん。季氏亡びなば、則ち魯昌えず」と。又之を筮し、《大有》の《乾》に之くに遇ふ。曰く、「同じく父に復り、敬すること君の所の如し」と。生まるるに及び、文の其の手に在る有りて「友」と曰ふ。遂に以って之に命く。
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