新書 / 階級
人主之尊,辟無異堂。階陛九級者,堂高大幾六尺矣。若堂無陛級者,堂高治不過尺矣。天子如堂,羣臣如陛,衆庶如地,此其辟也。故陛五級上,廉遠地則堂高;陛亡級,廉近地則堂卑。高者難攀,卑者易陵,理勢然也。故古者聖王制爲列等,內有公卿大夫士,外有公侯伯子男,然後有官師小吏,施及庶人,等級分明,而天子加焉,故其尊不可及也。
新字:人主之尊,辟無異堂。階陛九級者,堂高大幾六尺矣。若堂無陛級者,堂高治不過尺矣。天子如堂,羣臣如陛,衆庶如地,此其辟也。故陛五級上,廉遠地則堂高;陛亡級,廉近地則堂卑。高者難攀,卑者易陵,理勢然也。故古者聖王制為列等,内有公卿大夫士,外有公侯伯子男,然後有官師小吏,施及庶人,等級分明,而天子加焉,故其尊不可及也。
書き下し
人主の尊きは、辟えば堂の異なること無し。陛を階すること九級なる者は、堂の高大 幾そ六尺なり。若し堂に陛級無き者は、堂の高き治かに尺に過ぎず。天子は堂の如く、群臣は陛の如く、衆庶は地の如し。此れ其の辟えなり。故に陛 五級より上は、廉 地より遠ければ則ち堂 高し。陛に級亡く、廉 地に近ければ則ち堂 卑し。高き者は攀ぢ難く、卑き者は陵ぎ易きは、理勢の然らしむるなり。故に古者の聖王は列等を制為り、内に公卿大夫士有り、外に公侯伯子男有り、然る後に官師小吏有り、施して庶人に及ぶ。等級 分明にして天子 焉に加わる。故に其の尊きこと及ぶ可からず。
現代語訳
君主の尊さは、たとえれば堂のようなものです。階段が九段ある堂は、堂の高さがおよそ六尺にもなります。もし堂に段がなければ、堂の高さはわずか一尺ほどにすぎません。天子は堂、群臣は階段、民衆は地面にあたります。これがそのたとえです。だから階段が五段を過ぎれば、端が地面から遠いので堂は高くなります。階段に段がなく、端が地面に近ければ、堂は低くなります。高い所は登りにくく、低い所は乗り越えやすいのは、道理と勢いからそうなるのです。そこで昔の聖王は等級を作り、朝廷の内には公、卿、大夫、士があり、外には公、侯、伯、子、男があり、そのあとに官師や小吏があって、庶民にまで及ぶようにしました。等級がはっきりしていて、そこに天子が上乗りします。だからその尊さには誰も及ぶことができないのです。
解説
この章句が説くこと
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