慎思録 / 巻之五
文章尙純正典雅而有理。不尙巧麗浮華而無實。如昭明太子文選。古今文人之所宗也。擇取其善者。且資用其材則可也。然而其中載宋玉司馬相如諸賦揚雄劇秦美新劉伶酒德頌等。皆是浮華淫靡諛佞放蕩之文。可謂名撿拂地矣。文辭雖巧。不足尙也。自餘之文。亦儒者可取者寡矣。葉少蘊曰。文章不關于世敎。雖巧無益。斯言可法也。如文選諸作。徃往不關于世敎者多矣。
新字:文章尚純正典雅而有理。不尚巧麗浮華而無実。如昭明太子文選。古今文人之所宗也。択取其善者。且資用其材則可也。然而其中載宋玉司馬相如諸賦揚雄劇秦美新劉伶酒徳頌等。皆是浮華淫靡諛佞放蕩之文。可謂名撿払地矣。文辞雖巧。不足尚也。自余之文。亦儒者可取者寡矣。葉少蘊曰。文章不関于世教。雖巧無益。斯言可法也。如文選諸作。往往不関于世教者多矣。
書き下し
文章は純正典雅にして理有るを尚び、巧麗浮華にして実無きを尚ばず。昭明太子の文選の如きは、古今の文人の宗とする所なり。其の善き者を択び取り、且つ其の材を資用すれば則ち可なり。然り而して其の中に宋玉・司馬相如の諸賦、揚雄の劇秦美新、劉伶の酒徳頌等を載す。皆是れ浮華淫靡、諛佞放蕩の文にして、名検地を払ふと謂ふべし。文辞巧なりと雖も、尚ぶに足らず。自余の文も、亦儒者の取るべき者寡し。葉少蘊曰く、文章世教に関はらざれば、巧なりと雖も益無し、と。斯の言法とすべし。文選の諸作の如き、往往世教に関はらざる者多し。
現代語訳
文章は、純正で典雅で理のあるものを尊び、巧みで華麗で浮ついて実のないものは尊びません。昭明太子の『文選』などは、古今の文人が手本とするものです。そのよいものを選び取り、その材料を役立てるならよいでしょう。しかしその中には、宋玉や司馬相如の賦、揚雄の「劇秦美新」、劉伶の「酒徳頌」などが載っています。どれも浮ついて華美でみだら、へつらいや放埒の文で、名誉と節操が地に落ちたと言うべきものです。文辞が巧みでも、尊ぶには足りません。そのほかの文も、儒者の取るべきものは少ないのです。葉少蘊は「文章は世の教えに関わらなければ、巧みでも益がない」と言いました。この言葉は手本とすべきです。『文選』の作品などは、しばしば世の教えに関わらないものが多いのです。
解説
この章句が説くこと
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『慎思録』巻之五古昔本邦の名士、好んで文章詩賦を作為すと雖も、古人の正体に傚はず。故に鄙俗に近くして古雅に遠し。其の作る所の文詞は、軟態にして靡曼、華飾を好みて淫媟に流る。儒士の文と為すべからず。且つ字を布くこと多く顛倒し、字を連ぬるに俗語を用ひて、詞を作ること古に本づかざる者多し。今の人能く其の詩を誦し其の文を読めば、則ち其の可否を知るべし。
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『慎思録』巻之六君子の文章を作るや質実を尚ぶ。其の理を論じ事を記す、純正にして明詳なる所以なり。衆人の文章を作るや、浮華を尚ぶ。駁雑にして鄙俗なる所以なり。故に文章を作為するも、亦其の好む所に随ひて、純駁著る。其の好む所、慎まざるべけんや。
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『慎思録』巻之五文章を作るには、経義に依りて条理有るを貴ぶ。須らく平易にして簡要、含蓄して余味有るべし。必ずしも艱険奇異の辞を為して、以て其の美を誇耀することを要せず。謝畳山の文章軌範は、文章の学に資する有り。其の文多く唐宋の大家を取りて、漢魏六朝より出づる者寡し。鄒東廓も亦文章軌範の続集を選ぶ。其の中唐以前の文を収録する者多し。初学の士、二書を併せて之を用ひて可なり。今の学者文字を作為せんと欲せば、便ち先づ論語孟子を熟読し、又斯の二書を記誦すべし。則ち意を用ひ材を取るに源委有りて、且つ作文の法に達せん。
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『慎思録』巻之五明の方孝孺の鄭顕則に贈るの序は、文章を論じて、奇を好むと平易とを悪むを以て説を立つ。作文の学に於て、甚だ発明する所有り。学者の当に玩覧すべき所なり。曾南豊の文は、諸家の文章に比して、議論純正精詳なり。経術に得る有るに非ずんば能はざるなり。三蘇及び荊公の輩の及ばざる所なり。朱子之を称するも宜なり。
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『慎思録』巻之五好んで人の悪を揚げ、人の善を蔽ふ者は、不善焉より大なるは莫し。近世道学を以て名を立つるの儒、此の病有るを免れず。省察して之を戒めざるべけんや。本邦の書生の詞章を作るや、常に好んで詭異の文字を用ひ、那の尋常の文字を換却す。習ひて以て常と為す。苟も此くの如くならずんば、則ち誹議して以て拙俗と為す。近世以来最も甚だしと為す。俗尚の卑凡なること此くの如し。奇巧を欲すれば則ち愈拙陋なることを知らず。朱子称す、欧公・三蘇の文の好き処は、只是れ平易に道理を説きて、初めより曾て差異底の字を使はず、と。朱子の此の言、作文の法と為すべし。
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『慎思録』巻之五白楽天の詩に李杜を称して曰く、吟詠千古に流れ、声名四夷を動かす、と。韓退之の詩に曰く、李杜の文章在り、光焔万丈長し、と。愚謂ふ、李杜の詩名極めて高きこと此くの如し。然れども杜詩に曰く、文章は真に小技、道に於て未だ尊きを得ず、と。是れ杜の自ら言ふなり。湯東澗の詩にも亦云ふ、文章は道に於て未だ尊しと為さず、詩は文章に於て又一塵、と。然らば則ち詩名を得るは、之を文名に比すれば、亦益下と為すなり。方玄英の詩に曰く、吟じて五箇の字を成し、用ひ破る一生の心、と。誠なるかな是の言や。風雅の士は、俗流と同じからずと雖も、然り而して詩賦は君子の汲汲とする所に非ず。若し此を以て平生の工夫と為さば、道に於て尊ばざる所なり。