慎思録 / 巻之五
君子之行道也。唯暗然潜修。而不管人之知與不知。譬如喫飯然。唯要助飢而已。不求人之知。李謙云。陰德如耳鳴。己知之。人無知者。爲善者。當如此。古人曰。爲善易。避爲善之名難。誠哉斯言也。夫在諸內者。形諸外也。是言必然之理而已。形諸外者。非君子之所期待也。
新字:君子之行道也。唯暗然潜修。而不管人之知与不知。譬如喫飯然。唯要助飢而已。不求人之知。李謙云。陰徳如耳鳴。己知之。人無知者。為善者。当如此。古人曰。為善易。避為善之名難。誠哉斯言也。夫在諸内者。形諸外也。是言必然之理而已。形諸外者。非君子之所期待也。
書き下し
君子の道を行ふや、唯闇然として潜修して、人の知ると知らざるとを管せず。譬へば飯を喫ふが如く然り。唯飢ゑを助くるを要するのみ。人の知るを求めず。李謙云ふ、陰徳は耳鳴りの如し。己之を知りて、人知る者無し、と。善を為す者は、当に此くの如くなるべし。古人曰く、善を為すは易く、善を為すの名を避くるは難し、と。誠なるかな斯の言や。夫れ内に在る者は、外に形はる。是れ必然の理を言ふのみ。外に形はるる者は、君子の期待する所に非ざるなり。
現代語訳
君子が道を行うときは、ただひっそりと人知れず修めて、人が知るか知らないかにはかまいません。たとえば飯を食べるようなものです。ただ飢えを満たせばよいのであって、人に知られることを求めません。李謙は「陰徳は耳鳴りのようなものだ。自分にはわかるが、ほかに知る者はいない」と言いました。善を行う者はこのようであるべきです。昔の人は「善を行うのはやさしいが、善を行ったという名声を避けるのは難しい」と言いました。まことにこの言葉のとおりです。そもそも内にあるものは外に現れます。これは必然の理を言ったにすぎません。外に現れることは、君子が期待するものではないのです。
解説
「闇然」は『中庸』末章の「君子の道は闇然として日に章らかなり」から来る言葉で、目立たないが日ごとに明らかになる君子の姿を表します。陰徳を耳鳴りにたとえる言葉は、自分にしか聞こえないという比喩の妙で知られます。「内に在る者は外に形はる」は『大学』伝六章の「中に誠あれば外に形はる」を踏まえます。益軒は、徳が外に現れるのは自然の理だが、それを目当てにしてはならないと区別します。評価されるための善行は長続きしません。食事のように自分のために淡々と善を行うことが、結局は信頼を生むのです。
この章句が説くこと
陰徳善誠名中庸
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