慎思録 / 巻之五
韓子說性有三品。先儒議之曰。氣禀不同。豈只三品所能盡。推究則有千百種之多。此說固是。春秋之法。論義理尊嚴。雖有毫釐之差。不能不辨。故云爾。然人之禀性也。細析之。則固有千百種之不同。韓子非不知之。要之析其大槩。則不過有上中下三品而巳矣。韓子之言。豈可爲謬乎。韓子復說。其所以爲性者五。曰仁義禮智信。言其本性之同也。說性之品。有上中下三。言其氣質之異也。雖未發出本性氣質之名。其說性可謂頗具備矣。自孟子以後漢唐諸儒。無言及于此者。嗚呼韓子亦賢乎哉。凡宋儒之議韓子。往徃似刻薄。恐非論人以恕之道。而此啻求備于賢者之言也與。薛敬軒之議韓子。可謂最是也。
新字:韓子説性有三品。先儒議之曰。気禀不同。豈只三品所能尽。推究則有千百種之多。此説固是。春秋之法。論義理尊厳。雖有毫釐之差。不能不弁。故云爾。然人之禀性也。細析之。則固有千百種之不同。韓子非不知之。要之析其大槩。則不過有上中下三品而巳矣。韓子之言。豈可為謬乎。韓子復説。其所以為性者五。曰仁義礼智信。言其本性之同也。説性之品。有上中下三。言其気質之異也。雖未発出本性気質之名。其説性可謂頗具備矣。自孟子以後漢唐諸儒。無言及于此者。嗚呼韓子亦賢乎哉。凡宋儒之議韓子。往往似刻薄。恐非論人以恕之道。而此啻求備于賢者之言也与。薛敬軒之議韓子。可謂最是也。
書き下し
韓子、性に三品有りと説く。先儒之を議して曰く、気稟同じからず。豈に只三品の能く尽くす所ならんや。推究すれば則ち千百種の多き有り、と。此の説固より是なり。春秋の法、義理を論じて尊厳なり。毫釐の差有りと雖も、辨ぜざること能はず。故に爾か云ふ。然れども人の稟性や、細かに之を析けば、則ち固より千百種の同じからざる有り。韓子之を知らざるに非ず。之を要するに其の大概を析けば、則ち上中下の三品有るに過ぎざるのみ。韓子の言、豈に謬りと為すべけんや。韓子復説く、其の性為る所以の者五、曰く仁義礼智信、と。其の本性の同じきを言ふなり。性の品を説きて、上中下の三有りとす。其の気質の異なるを言ふなり。未だ本性気質の名を発出せずと雖も、其の性を説くこと頗る具備すと謂ふべし。孟子より以後、漢唐の諸儒、此に言及する者無し。嗚呼韓子も亦賢なるかな。凡そ宋儒の韓子を議する、往往刻薄に似たり。恐らくは人を論ずるに恕を以てするの道に非ず。而して此れ啻に備はるを賢者に求むるの言なるか。薛敬軒の韓子を議する、最も是なりと謂ふべし。
現代語訳
韓愈は、性には上中下の三品があると説きました。先人の儒者はこれを批判して「生まれつきの気は同じではない。どうして三品だけで言い尽くせようか。突き詰めれば千百種もある」と言いました。この説はもちろん正しいのです。春秋の法のように、義理を論じるのは厳格で、わずかな違いでも見分けずにはいられません。だからそう言うのです。しかし人の生まれつきは、細かく分ければもちろん千百種の違いがあります。韓愈がそれを知らなかったわけではありません。要するに大まかに分ければ、上中下の三品にすぎないということです。韓愈の言葉をどうして誤りとできましょうか。韓愈はまた、性であるゆえんのものは五つ、仁義礼智信だと説きました。これは本性が同じであることを言ったのです。性の品を説いて上中下の三つがあるとしたのは、気質が異なることを言ったのです。本性と気質という名はまだ打ち出していませんが、その性の説き方はかなり備わっていると言えます。孟子以後、漢や唐の儒者でここまで言い及んだ者はいません。ああ、韓愈もまた賢い人です。およそ宋の儒者が韓愈を批判するのは、しばしば冷酷に近いものがあります。人を論じるのに思いやりをもってする道ではないでしょう。これは賢者にただ完全さを求める言葉にすぎないのではないでしょうか。薛敬軒が韓愈を論じたものが、最も正しいと言えます。
解説
この章句が説くこと
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『慎思録』巻之二朱子曰く、韓文公曰く、人の性為る所以の者は五、と。其の説最も之を得たりと為す、と。篤信謂ふ、韓子の五性を説き、三品を説くは、是れ語の粋なる者にして、依拠すべし。漢唐の諸儒の及ばざる所以なり。蓋し五性を説く者は、其の本然を言ふなり。三品を説く者は、其の気質を言ふなり。
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『慎思録』巻之六性は一なり。本然を以て言ふ者有り、禀受する所を以て言ふ者有り。本然を以て言ふ者は、易の所謂一陰一陽之を道と謂ふ、之を継ぐ者は善なり、之を成す者は性なり。中庸に曰く、天の命之を性と謂ひ、性に率ふ之を道と謂ふ。孟子の性善を言ふ。是れ皆本然を言ふなり。蓋し天地の理は、本自ら善なり。是を以て人の禀性は、其の本善ならざる有ること無し。張子之を天地の性と謂ふ。是れ理を以て言ふ。故に程子曰く、性は即ち理なりと。蓋し本然の性は天命の在る所なり。禀受する所を以て言ふ者有り。人生の初め、陰陽の気を禀くるに、清濁厚薄純駁偏正の同じからざる有り。人の禀受する所、偶然として各異なること此くの如きなり。夫子曰く、性相近しと。孟子曰く、食色は性なりと。又曰く、形色は天性なりとは、此れ皆禀受する所を以て言ふ。故に董子曰く、性は生の質なりと。是れ程張二子の所謂気質の性是れなり。其の禀くる所万殊なり。蓋し性の字は心に従ひ生に従ふ。故に生質を以て言ふ者は、便ち性の字の正訓なり。是れ性の本義なり。性を以て理と為す者は、其の本然を言ふのみ。性の字の正訓に非ざるなり。羅整菴、理一分殊を以て性を説きて、天地気質を分かたず。先正の成説と稍異なると雖も、発明する所有りと謂ふべし。蓋し本然なる者は理一なり。天下の人の禀くる所皆一なり。気質なる者は分殊なり。衆人の禀くる所、各同じからず。羅氏の此の説、後に出づる者は巧なりと謂ふべし。天下の事、漸を以て開くる者、此の類なり。
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『慎思録』巻之二董子曰く、性は生の質なり、と。是れ気質の謂ひにして、性を言ふの本義と為すべし。蓋し性は一なり。然れども本然を以て言ふ者有り、気質を以て言ふ者有り。夫子の性相近しと言ふ者は、気質を雑へて之を言ふ。蓋し気禀もて性を言ふ者は、是れ性の本義なり。本然の性は、理の一なるを言ふなり。気質の性は、禀気の万殊有るを言ふなり。気質の本然なる者は理なり。孟子の性善を言ふは、乃ち性の本然を言ふなり。天下古今の性、其の本然なる者は、其の理一なり。故に程子曰く、性は即ち理なり、と。理は是れ性の本然なり。荀楊以下は性の本然を知らず。異論有る所以なり。故に程子直ちに性を指して理と為す。是れ性の本然は即ち理なるを言ふなり。性の善為るを明らかにする所以なり。然りと雖も本然の性も、亦た自ら気質の中に在りて、気質の本然為り。別に一物有りて本然の性と為るに非ず。人豈に二性有らんや。諸を水に譬ふれば、水の清濁純雑有る者は、猶ほ気質のごときなり。其の清き者は、水の本然なり。故に水の本然も、亦た水の気質の中に在り。程子曰く、生之を性と謂ふ。性は即ち気、気は即ち性、生の謂ひなり、と。是れ気質を指して性を言ふ。最も明白と為す。孟子の性善を称するは、惟だ気質の中に於て其の本然を言ふなり。二性有るに非ず。宋季の諸儒は、気質の性と天地の性とを以て、別けて之を言ふ。是れ二性有るなり。通論に非ざるなり。
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『呻吟語』内篇・性命・義理の性は善有りて惡無し虞廷は專ら性善を言はず、曰く「人心惟れ危く、道心惟れ微なり」と。或ひと曰く「人心は性に非ず」と。曰く、「性に非ずとするも可なり。亦た是れ陰陽五行の化生ならずや」と。六經も專ら性善を言はず、曰く「惟れ皇上帝、衷を下民に降し、厥に恒性有り」と。又曰く「天は蒸民を生じ欲有り、主無ければ乃ち亂る」と。孔子も專ら性善を言はず、曰く「之を繼ぐ者は善なり、之を成す者は性なり」と。又曰く「性は相近きなり」「惟だ上智と下愚とは移らず」と。才めて相近しと說けば、便ち是れ一個ならず。相遠きは相近きより脚を起こす。子思も專ら性善を言はず、曰く「道を修むる、之を教と謂ふ」と。性皆善ならば、道胡ぞ修む可けんや。孟子も專ら性善を言はず、曰く「聲色・臭味・安佚は性なり」と。或ひと曰く「這の性は是れ好性なり」と。曰く、「好性ならば如何ぞ君子謂はざる」と。又曰く「心を動かし性を忍ぶ」と。善性豈に忍ぶ可けんや。犬の性、牛の性、豈に性に非ずや。犬・牛の性も、亦た仁・義・禮・智・信の性ならんや。細かに之を推さば、犬の性は猶ほ犬の性のごとく、牛の性は猶ほ牛の性のごときか。周茂叔も專ら性善を言はず、曰く「五性相感じて善惡分かれ、萬事出づ」と。又曰く「幾は善惡なり」と。程伯淳も專ら性善を言はず、曰く「惡も亦た之を性と謂はざる可からず」と。大抵性善を言ふ者は、義理を主として氣質を言はず。蓋し孟子の諸家を折くに自りて始まる。後來の諸儒遂に此の說を主として敢へて異同せず、是れ未だ天地萬物の情を觀ざるなり。義理は固より是れ天賦なり、氣質も亦た豈に人の為ならんや。眾人を論ずる無かれ、即ち堯舜禹湯文武周孔も、豈に一樣の氣質ならんや。愚僭かに為に之を說きて曰く、「義理の性は、善有りて惡無し。氣質の性は、善有り惡有り。氣質も亦た天の人に命じて生と俱に生ずる者なり、之を性と謂はざる可けんや。程子云ふ、『性を論じて氣を論ぜざれば備はらず、氣を論じて性を論ぜざれば明らかならず』と。性と氣とを分かちて兩項と作さば、便ち透徹せず。張子は善を以て天地の性と為し、清濁純駁を氣質の性と為す、支離なるを覺ゆるに似たり。其の實、天地は只だ是れ一個の氣、理は氣の中に在り、萬物に賦して、方めて性を以て言ふ。故に性の字は生に從ひ心に從ふ、生有るの心を言ふなり。設使ひ氣質無くんば、只だ是れ一個の德性のみ、人人都て是れ生知の聖人ならん。千古の聖賢の千言萬語、教化刑名は都て是れ多かりし底なり、何ぞ苦しむ所ありて此くのごとくならんや。這れ都て是れ氣質を降伏し、德性を扶持するなり。案を此に立て、千百世の後の之を駁するを俟つ」と。
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『慎思録』巻之一宋儒は気質の性と天地の性とを以て、分拆して之を言ふ。此れ学者の暁り易きが為なり。其の実人に二性無し。気質の本然、即ち是れ天地の性のみ。性とは本是れ気質の謂なり。朱子曰く、心を公にせざるの人は、書を読むこと能はずと。信なるかな斯の言や。蓋し心を公にせざるの人は、其の心偏邪多し。力学読書すと雖も、其の見る所平正ならず、常に一己の私に徇ひて、之を主張す。是を以て正理を得ること能はず、見る所差多し。書を読むこと能はざる所以なり。
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『慎思録』巻之四気質とは、何を謂ふや。人は天の気と地の質とを受けて生ず。其の天の気を受くるに、陰陽清濁の異有り。其の地の質を禀くるに、剛柔純駁の殊有り。気と質と、二者之を性と謂ふ。宋儒之を性と謂はずして、気質と謂ふは何ぞや。蓋し性の本然に非ざるを以てなり。故に名を異にするのみ。然れども気質の外に、本然の性有るに非ざるなり。孟子の性善と言ふ者は、其の気質の本然の理を指して、之を性と謂ふなり。