慎思録 / 巻之四
抑詩曰。誨爾諄諄。聽我藐藐。葢聖賢之敎人。忠臣之諫君。嚴父之戒子。無所不至。所謂誨爾諄諄也。然而學者之從敎。與人君之納諫。人子之受戒。常不能及于此。敎誨與諫戒。皆爲空言而無益。所謂聽我藐藐也。
新字:抑詩曰。誨爾諄諄。聴我藐藐。葢聖賢之教人。忠臣之諫君。厳父之戒子。無所不至。所謂誨爾諄諄也。然而学者之従教。与人君之納諫。人子之受戒。常不能及于此。教誨与諫戒。皆為空言而無益。所謂聴我藐藐也。
書き下し
抑の詩に曰く、爾に誨ふること諄諄たり、我を聴くこと藐藐たり、と。蓋し聖賢の人を教へ、忠臣の君を諫め、厳父の子を戒むる、至らざる所無し。所謂爾に誨ふること諄諄たるなり。然り而して学者の教へに従ふ、人君の諫めを納るる、人子の戒めを受くる、常に此に及ぶこと能はず。教誨と諫戒と、皆空言と為りて益無し。所謂我を聴くこと藐藐たるなり。
現代語訳
『詩経』抑の詩に「あなたにねんごろに教えるのに、私の言うことをうわの空で聞く」とあります。聖人や賢者が人を教え、忠臣が君主を諫め、厳しい父が子を戒めるのは、至らないところがないほどです。これが「あなたにねんごろに教える」ということです。しかし学ぶ者が教えに従うこと、君主が諫めを受け入れること、子が戒めを受けることは、いつもそこまで及びません。教えも諫めも戒めも、みな空しい言葉となって益がありません。これが「私の言うことをうわの空で聞く」ということです。
解説
『詩経』大雅抑篇の「誨爾諄諄、聴我藐藐」を引き、教える側がどれほど心を尽くしても、受け取る側が真剣でなければ言葉は空しくなると嘆く条です。聖賢と学ぶ者、忠臣と君主、父と子という三つの関係を並べ、教えや忠告の価値は聞く側の姿勢で決まると示します。これは教える側への慰めであると同時に、学ぶ側への戒めでもあります。上司の助言や周囲の忠告を、うわの空で聞き流していないかを振り返るきっかけとなり、素直に聞く力こそ成長の条件だと教えてくれます。
この章句が説くこと
教諫言傾聴学問素直
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