文武訓 / 文訓上之末
一われに學ありて、われにしたがひ聞く人あらば、心をつくしてをしへさとすべし。しからずば說くべからず。又わが心に自得せることありとも、其理ふかくして、其人きき得がたきことならば、人にかたるべからず。達識の人に非ればさとしがたし。孔子共に言ふべからずしてともに言ふは、言を失ふ、とのたまへり。
新字:一われに学ありて、われにしたがひ聞く人あらば、心をつくしてをしへさとすべし。しからずば説くべからず。又わが心に自得せることありとも、其理ふかくして、其人きき得がたきことならば、人にかたるべからず。達識の人に非ればさとしがたし。孔子共に言ふべからずしてともに言ふは、言を失ふ、とのたまへり。
書き下し
一われに学ありて、われにしたがひ聞く人あらば、心をつくしてをしへさとすべし。しからずば説くべからず。又わが心に自得せることありとも、其理ふかくして、其人きき得がたきことならば、人にかたるべからず。達識の人に非ればさとしがたし。孔子共に言ふべからずしてともに言ふは、言を失ふ、とのたまへり。
現代語訳
自分に学問があって、自分に従って聞こうとする人がいれば、心を尽くして教え諭しなさい。そうでなければ説いてはいけません。また自分の心に自ら会得したことがあっても、その理が深くて、その人が聞き取りがたいことなら、人に語ってはいけません。見識の達した人でなければ、諭しがたいものです。孔子も「共に言うべからずして共に言うは、言を失う」とおっしゃいました。
解説
学びたい人には心を尽くして教え、聞く気のない人や理解の及ばない人には深い理を説くな、と教える側の心得を述べています。引用は『論語』衛霊公篇の「与に言うべからずして之と言えば、言を失う」を踏まえたものです。和俗童子訓など教育の書を多く著した益軒は、相手の段階に応じて教えることを重んじました。今の子育てや部下の指導でも、相手の関心や理解度を見ずに一方的に説くと、言葉が無駄になるだけでなく反発を招きます。教える時と相手を選ぶ知恵です。
この章句が説くこと
教育論語言葉相手指導
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『碧巌録』第八十八則玄沙、参じて情塵意想を絶し、浄裸裸、赤灑灑地なる処に到つて、方に恁麼に道ふことを解す。是の時諸方、列刹相ひ望む。尋常衆に示して道ふ、「諸方の老宿、尽く接物利生と道ふ。忽ち三種の病人の来るに遇ふ時、作麼生か接せん。患盲の者は、鎚を拈じ払を竪つるも他又た見ず。患聾の者は、語言三昧も他又た聞かず。患啞の者は、他をして説かしむるも又た説き得ず。且く作麼生か接せん。若し此の人を接し得ずんば、仏法に霊験無し」と。如今の人、若し盲聾瘖啞の会を作さば、卒に摸索不著ならん。所以に道ふ、「句中に向つて死却すること莫れ」と。須らく是れ他の玄沙の意を会して始めて得べし。玄沙常に此の語を以て人に接す。僧有り、久しく玄沙の処に在り。一日上堂す。僧、和尚に問うて云く、「三種病人の話、還た学人の道理を説くことを許すや也た無しや」。玄沙云く、「許す」。僧便ち珍重して下り去る。沙云く、「不是、不是」。這の僧は他の玄沙の意を会得す。後来法眼云く、「我れ地蔵和尚の這の僧の語を挙するを聞いて、方に三種病人の話を会す」と。若し這の僧会せずと道はば、法眼什麼と為てか却つて恁麼に道ふ。若し他会すと道はば、玄沙什麼と為てか却つて「不是、不是」と道ふ。一日地蔵道ふ、「某甲聞く、和尚に三種病人の話有りと、是なりや否や」。沙云く、「是なり」。蔵云く、「珪琛、現に眼耳鼻舌有り、和尚作麼生か接せん」。玄沙便ち休し去る。若し玄沙の意を会得せば、豈に言句上に在らんや。他の会する底は自然に殊別なり。
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『碧巌録』第四十一則「活中に眼有るも還つて死に同じ」。雪竇は是れ知有底の人、所以に敢へて頌す。古人道ふ、「他は活句に参じて、死句に参ぜず」。雪竇道ふ、「活中に眼有るも還つて死漢に同じきに相似たり」。何ぞ曾て死せん。死中に眼を具すれば活人に同じきが如し。古人道ふ、「死人を殺し尽くして方に活人を見、死人を活かし尽くして方に死人を見る」。趙州は是れ活底の人、故に死問を作して投子を験取す。薬性の忌む所の物の如く、故に将ち去つて試験するに相似たり。所以に雪竇道ふ、「薬忌何ぞ須ひん作家を鑑みることを」。此れは趙州の問処を頌す。後面に投子を頌す。「古仏すら尚ほ言ふ曾て未だ到らずと」。只だ這の大死底の人の却つて活する処、古仏も亦た曾て到らず、天下の老和尚も亦た曾て到らず。任是釈迦老子・碧眼の胡僧も也た須らく再参して始めて得べし。所以に道ふ、「只だ老胡の知るを許して、老胡の会するを許さず」。雪竇道ふ、「知らず誰か解く塵沙を撒く」。見ずや、僧、長慶に問ふ、「如何なるか是れ善知識の眼」。慶云く、「願有り沙を撒かず」。保福云く、「更に撒くべからず」。天下の老和尚、曲彔木床上に拠つて、棒を行じ喝を行じ、払を竪て床を敲き、神通を現じ主宰と作る、尽く是れ沙を撒くなり。且く道へ、如何にしてか免れ得ん。
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