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慎思録 / 巻之四

理與氣一而二。二而一。可謂同而異也。故善觀理者。就陰陽言之。而不失其理。由以理爲主也。氣是理之運用。理是氣之本主。易曰。一陰一陽。之謂道。又曰。立天之道。曰陰與陽。是就氣而見道。可見道與陰陽決是非二物。混同而無間也。其混同無間之中。有至理而主宰之。如或離陰陽而言道。或主陰陽而言道者。非知道者也。離陰陽而言道者。如係風捕影。此異學空虛之說也。其言爲妄誕。主陰陽而言道者。如甘糟粕而舍醍醐也。是方技術數之說也。其言爲鄙陋。皆此不知道之至理。而爲陰陽之主也。苟理會此意。則合陰陽爲道。固可也。以陰陽爲器。亦可也。故明道曰。器亦道。道亦器。苟離陰陽爲道則不可也。葢由無無理之氣。無無氣之理也。

新字:理与気一而二。二而一。可謂同而異也。故善観理者。就陰陽言之。而不失其理。由以理為主也。気是理之運用。理是気之本主。易曰。一陰一陽。之謂道。又曰。立天之道。曰陰与陽。是就気而見道。可見道与陰陽決是非二物。混同而無間也。其混同無間之中。有至理而主宰之。如或離陰陽而言道。或主陰陽而言道者。非知道者也。離陰陽而言道者。如係風捕影。此異学空虚之説也。其言為妄誕。主陰陽而言道者。如甘糟粕而舎醍醐也。是方技術数之説也。其言為鄙陋。皆此不知道之至理。而為陰陽之主也。苟理会此意。則合陰陽為道。固可也。以陰陽為器。亦可也。故明道曰。器亦道。道亦器。苟離陰陽為道則不可也。葢由無無理之気。無無気之理也。

書き下し

理と気とは一にして二、二にして一なり。同じくして異なりと謂ふべし。故に善く理を観る者は、陰陽に就きて之を言ひて、其の理を失はず。理を以て主と為すに由るなり。気は是れ理の運用、理は是れ気の本主なり。易に曰く、一陰一陽、之を道と謂ふ、と。又曰く、天の道を立つ、曰く陰と陽と、と。是れ気に就きて道を見るなり。道と陰陽とは決して是れ二物に非ざることを見るべし。混同して間無きなり。其の混同して間無きの中に、至理有りて之を主宰す。如し或いは陰陽を離れて道を言ひ、或いは陰陽を主として道を言ふ者は、道を知る者に非ざるなり。陰陽を離れて道を言ふ者は、風を係ぎ影を捕ふるが如し。此れ異学空虚の説なり。其の言は妄誕為り。陰陽を主として道を言ふ者は、糟粕を甘しとして醍醐を舎つるが如し。是れ方技術数の説なり。其の言は鄙陋為り。皆此れ道の至理にして陰陽の主為ることを知らざるなり。苟も此の意を理会せば、則ち陰陽を合して道と為すも、固より可なり。陰陽を以て器と為すも、亦た可なり。故に明道曰く、器も亦た道、道も亦た器、と。苟も陰陽を離れて道と為さば則ち不可なり。蓋し理無きの気無く、気無きの理無きに由るなり。

現代語訳

理と気は、一つでありながら二つ、二つでありながら一つです。同じでありながら異なると言うべきです。ですから理をよく見る者は、陰陽に即して語りながら、その理を見失いません。理を主とするからです。気は理のはたらき、理は気の根本の主です。『易』に「一陰一陽、これを道という」とあり、また「天の道を立てて陰と陽という」とあります。これは気に即して道を見ているのです。道と陰陽が決して二つの物ではないことがわかります。混じり合って隙間がないのです。その隙間のない中に、至高の理があって主宰しています。もし陰陽を離れて道を言ったり、陰陽ばかりを主にして道を言ったりするなら、道を知る者ではありません。陰陽を離れて道を言うのは、風をつなぎ影を捕らえるようなもので、異学の空虚な説であり、その言葉はでたらめです。陰陽を主にして道を言うのは、酒かすを甘いとして醍醐を捨てるようなもので、占いや術数の説であり、その言葉は卑しいものです。どちらも、道が至高の理であり陰陽の主であることを知らないのです。この意味をよく理解すれば、陰陽を合わせて道とするのもよく、陰陽を器とするのもよいのです。だから程明道は「器もまた道、道もまた器」と言いました。ただ陰陽を離れて道を立てることだけはいけません。理のない気はなく、気のない理はないからです。

解説

益軒は、理と気を「一にして二、二にして一」と捉え、道を語る二つの誤りを戒めます。一つは陰陽を離れて道を語る仏教・老荘のような空虚な説、もう一つは陰陽の現象ばかり追って理を忘れる占術の説です。『易』繋辞伝の「一陰一陽之謂道」や程明道の「器亦道、道亦器」を引き、形ある現実の中にこそ道を見る立場を示しています。理念だけの空論も、目先の現象だけの小手先も避けよという教えは、方針と現場の両方を見る仕事の姿勢にそのまま通じます。

この章句が説くこと

陰陽異学

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