慎思録 / 巻之三
管子曰。思之思之不得。鬼神通之。非鬼神之力也。其精氣之極也。愚謂。恭默思道。是聖學之功夫。思曰睿。睿作聖。是愼思之所以通精微也。迨其工夫專一而久。必有自得者。如有神助然。故曰鬼神通之。
新字:管子曰。思之思之不得。鬼神通之。非鬼神之力也。其精気之極也。愚謂。恭黙思道。是聖学之功夫。思曰睿。睿作聖。是慎思之所以通精微也。迨其工夫専一而久。必有自得者。如有神助然。故曰鬼神通之。
書き下し
管子曰く、之を思ひ之を思ひて得ざれば、鬼神之に通ぜん。鬼神の力に非ざるなり。其の精気の極まりなり、と。愚謂へらく、恭黙して道を思ふは、是れ聖学の功夫なり。思を睿と曰ひ、睿は聖を作す。是れ慎思の精微に通ずる所以なり。其の工夫専一にして久しきに迨べば、必ず自得する者有り。神助有るが如く然り。故に鬼神之に通ずと曰ふ。
現代語訳
『管子』に「思って思ってそれでも得られなければ、鬼神がそれを通じさせてくれる。それは鬼神の力ではない。精気が極まったからである」とあります。私が思うに、慎み黙して道を思うことが聖人の学問の工夫です。『書経』に「思うことを睿(さとい)といい、睿は聖を作る」とあります。これが慎思によって精微に通じる理由です。その工夫が専一で長く続けば、必ず自ら会得するものがあります。神の助けがあるかのようです。だから「鬼神がそれに通じる」と言うのです。
解説
書名の『慎思録』の「思」の意味がよく表れた一条です。『管子』内業篇の「之を思ひ之を思ひ、又重ねて之を思ふ。思ひて通ぜずんば、鬼神将に之を通ぜんとす」を引き、それは鬼神の力ではなく精気の極みだとします。「恭黙して道を思ふ」は『書経』説命上、「思を睿と曰ひ、睿は聖を作す」は洪範篇です。書名の「慎思」は『中庸』の「博学・審問・慎思・明弁・篤行」から取られています。考え抜いた末にひらめきが訪れる経験は誰にでもあり、粘り強く考え続けることの価値を教えてくれます。
この章句が説くこと
思慎思専一自得管子
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