師導古典を学びたいすべての人に

慎思録 / 巻之三

眞西山心經賛。篤信按。文選註曰。凡史傳之末作一賛。云云。然則此賛當以在篇末爲正。敬齋箴。尊其瞻視。篤信謂。此一句本出于論語。竊謂。其字指我身。瞻視二字。亦屬我而不屬人。是謂嚴正吾之所瞻視。葢無淫視無傾姦。而端正目容者。是尊其瞻視也。非謂可尊嚴吾容貌。而使人生敬畏也。折旋蟻封。所以形容擇地而蹈之敬也。動靜不違。表裏交正。此二句非指敬之效。重總括上文。而又謂其工夫也。弗違者。言不違理也。墨卿司戒。敢告靈臺。此本于張華女史箴曰。女史司箴。敢告庶姫。

新字:真西山心経賛。篤信按。文選註曰。凡史伝之末作一賛。云云。然則此賛当以在篇末為正。敬斎箴。尊其瞻視。篤信謂。此一句本出于論語。窃謂。其字指我身。瞻視二字。亦属我而不属人。是謂厳正吾之所瞻視。葢無淫視無傾姦。而端正目容者。是尊其瞻視也。非謂可尊厳吾容貌。而使人生敬畏也。折旋蟻封。所以形容択地而蹈之敬也。動静不違。表裏交正。此二句非指敬之効。重総括上文。而又謂其工夫也。弗違者。言不違理也。墨卿司戒。敢告霊台。此本于張華女史箴曰。女史司箴。敢告庶姫。

書き下し

真西山の心経賛。篤信按ずるに、文選の註に曰く、凡そ史伝の末に一賛を作る、云云、と。然らば則ち此の賛は当に篇末に在るを以て正と為すべし。敬斉箴に、其の瞻視を尊くす、と。篤信謂ふ、此の一句は本論語に出づ。窃かに謂ふ、其の字は我が身を指す。瞻視の二字も、亦我に属して人に属せず。是れ吾の瞻視する所を厳正にするを謂ふ。蓋し淫視無く傾姦無くして、目容を端正にする者、是れ其の瞻視を尊くするなり。吾が容貌を尊厳にして、人をして敬畏を生ぜしむべきを謂ふに非ざるなり。蟻封に折旋すとは、地を択びて之を蹈むの敬を形容する所以なり。動静違はず、表裏交々正しとは、此の二句は敬の効を指すに非ず、重ねて上文を総括して、又其の工夫を謂ふなり。違はずとは、理に違はざるを言ふなり。墨卿戒を司り、敢て霊台に告ぐとは、此れ張華の女史箴に曰ふ、女史箴を司り、敢て庶姫に告ぐ、に本づく。

現代語訳

真徳秀(西山)の「心経賛」について。私(篤信)が考えるに、『文選』の注に「およそ史書の伝の末尾に賛を一つ作る」云々とあります。そうであれば、この賛は篇の末尾に置くのが正しいのです。朱子の「敬斎箴」に「その瞻視を尊くす」とあります。私が思うに、この一句はもと『論語』に出ます。ひそかに思うに、「其の」の字は自分の身を指し、「瞻視」の二字も自分に属して他人に属しません。これは自分の見ることを厳正にすることを言うのです。思うに、みだらに見ず、傾いた見方をせず、目の容を正しくすること、これが「その瞻視を尊くする」です。自分の容貌を厳かにして、人に敬い畏れる心を起こさせるべきだと言うのではありません。「蟻塚の間を折れ曲がって歩く」とは、地を選んで踏む敬を形容したものです。「動静違はず、表裏交々正し」の二句は、敬の効果を指すのではなく、重ねて上文を総括し、またその工夫を言ったものです。「違はず」とは理に違わないことを言います。「墨卿戒を司り、敢て霊台に告ぐ」は、張華の「女史箴」の「女史箴を司り、敢て庶姫に告ぐ」に基づいています。

解説

『心経』の巻末に付く真徳秀の賛の位置と、朱子「敬斎箴」の字句を考証した注釈的な一条です。「其の瞻視を尊くす」は『論語』堯曰篇の「其の衣冠を正し、其の瞻視を尊くす」に出ます。益軒はこれを人に畏れられるための威厳ではなく、自分の目の用い方を正す工夫と読み、敬を内面の修養として捉え直しました。「傾姦」は字の誤りの可能性があります。一つの言葉を誰に向けたものか吟味する読み方は、古典を自分の工夫に引き寄せて読む手本です。

この章句が説くこと

敬斎箴心経考証容貌

関連する章句

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる