慎思録 / 巻之三
西山心經所載。即是堯舜以來歷代聖賢相傳心學之最要者。而與彼陸王之所謂心學者異矣。學者平日誦之。玩索而有得焉。則雖一編之小册子。終身用之而有餘。
新字:西山心経所載。即是堯舜以来歴代聖賢相伝心学之最要者。而与彼陸王之所謂心学者異矣。学者平日誦之。玩索而有得焉。則雖一編之小册子。終身用之而有余。
書き下し
西山の心経に載する所は、即ち是れ堯舜以来歴代の聖賢相伝ふる心学の最要なる者にして、彼の陸王の所謂心学なる者と異なり。学者平日之を誦し、玩索して得ること有らば、則ち一編の小冊子と雖も、終身之を用ひて余り有り。
現代語訳
真徳秀(西山)の『心経』に載っているものは、堯・舜以来、歴代の聖賢が伝えてきた心の学問のうち最も大切なものであり、あの陸象山・王陽明のいう心学とは異なります。学ぶ者が日頃これを唱え、よく味わい探って得るところがあれば、一冊の小さな本であっても、一生用いて余りあるでしょう。
解説
南宋の真徳秀(号は西山)が編んだ『心経』は、『書経』大禹謨の「人心惟れ危く、道心惟れ微なり」をはじめ、経書と宋儒の心に関する言葉を集めた小冊子です。日本でも近世に広く読まれ、山崎闇斎らも重んじました。益軒は、これを陸象山・王陽明の心即理の心学と区別し、経書に根ざした正統の心学としています。短い書物でも繰り返し味わえば一生の支えになるという言葉は、多くを読むより、手元の一冊を深く読み込む読書の価値を思い出させてくれます。
この章句が説くこと
心学心経読書玩索聖賢
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『慎思録』巻之三真西山の心経賛。篤信按ずるに、文選の註に曰く、凡そ史伝の末に一賛を作る、云云、と。然らば則ち此の賛は当に篇末に在るを以て正と為すべし。敬斉箴に、其の瞻視を尊くす、と。篤信謂ふ、此の一句は本論語に出づ。窃かに謂ふ、其の字は我が身を指す。瞻視の二字も、亦我に属して人に属せず。是れ吾の瞻視する所を厳正にするを謂ふ。蓋し淫視無く傾姦無くして、目容を端正にする者、是れ其の瞻視を尊くするなり。吾が容貌を尊厳にして、人をして敬畏を生ぜしむべきを謂ふに非ざるなり。蟻封に折旋すとは、地を択びて之を蹈むの敬を形容する所以なり。動静違はず、表裏交々正しとは、此の二句は敬の効を指すに非ず、重ねて上文を総括して、又其の工夫を謂ふなり。違はずとは、理に違はざるを言ふなり。墨卿戒を司り、敢て霊台に告ぐとは、此れ張華の女史箴に曰ふ、女史箴を司り、敢て庶姫に告ぐ、に本づく。
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『慎思録』巻之四凡そ読書の法は、経を本と為し、史之に次ぎ、子集又其の次なり。其の功を用ふるの軽重本末次序は、須らく此の如くすべし。諸史子集を読むにも、亦た各須らく一書に専らにすべし。或いは二書を兼ね読むも亦た可なり。然れども一時に誦読する所の書多くして専一ならざれば、則ち紛冗にして条理を成さず。功力分かれて、精熟を做し難し。凡そ諸史子集は、其の精要なる者を抄出して冊子と為し、須らく日夜熟読して記誦を成すべし。此の如くすれば則ち功を用ふること少なくして、効多し。凡そ書を看るに、其の要用有る者は、須らく誦を成すべし。誦を成さざれば用を済し難し。
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『慎思録』自叙古の聖賢、思の問学に功有るを説くこと、勝げて言ふべからず。夫子、学と思とを以て相対して説き、而して其の功相等し。何ぞや。蓋し学は自得を貴ぶ。苟も慎思せざれば、則ち博学審問すと雖も、融会貫通して之を己に得ること能はず。故に程子曰く、学を為すの道は、必ず思に本づく。思へば則ち之を得、思はざれば則ち得ずと。然らば則ち思の功、其の義大なるかな。余、十四五歳より、頗る聖学の尚ぶべきを知りて、好んで経伝を誦読し、幼より老に至るまで、晨昏廃せず。妄りに意ふに自得せんと欲するの志有り。且つ稟性拙鈍にして、機務に闇し。是を以て他の事業の念無く、啻だ講学の事を以て当務の急と為す。故に平生、拙詞を作り訓詁に泥みて、無益を作し学功を曠しくすることを喜ばず。間に居て書を読むの時、毎に心に疑惑を生ずること有れば、則ち開通せんと欲して、恭黙して之を思ふ。之を思ひて得ざれば措かず。精気の極、鬼神之に教ふること有るに似たり。此に於て毎に会心有れば、則ち之を策に記し、歳を積みて編を成す。僭妄の罪、固より逃るべからずと雖も、愚者も千慮に一得有るに庶からんか。嗚呼、老懶の至り、舛訛を修改すること能はず、自ら以て憾みと為すのみ。然れども鄙陋の作、奚ぞ後世の子雲を待たんや。故に敢へて諸を達識に伝へんと欲するに非ず、将に以て衰残の廃忘に備へ、且つ以て之を後裔に遺して、家訓と為さんとすと云ふのみ。
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『慎思録』巻之四経を読むの法は、宜しく専一に研究すべし。奕の小数為るが如きも、亦た専心致志せざれば、則ち得ざるなり。況や聖経に於てをや。一経終はりて復た一経を読む。四書六経は須らく終身循環して、一日も廃すべからず。学者此を以て終身の事業と為すべし。
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『慎思録』巻之一学は道を知るを以て本と為す。道を知ることは自得に非ざれば、則ち能はざるなり。蓋し自得すること能はざれば、則ち古に博く今を知ると雖も、道を知ると為すべからず。此れ学の自得を貴ぶ所以なり。自得の方は、慎思を以て要と為す。精微に通ずる所以なり。故に曰く、思を睿と曰ひ、睿は聖を作すと。周子曰く、思は聖功の本にして、吉凶の機なりと。程子も亦曰く、学は思に本づくと。蓋し自得の方は、固より博学を以て先と為す。然れども慎思に非ざれば、則ち黙識心通して之を己に得ること能はず。自得とは何ぞや。自然に之を得るなり。自得する所以の者は、其の功を急がず、其の等を躐えず、深く造るに道を以てし、力を用ふること久しくして、自然に之を得るなり。臆度して強ひて求むべからざるなり。又偶然にして頓悟すべからざるなり。
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『慎思録』巻之六今聖経賢伝を観るに、其の立言の本意既に之を得と雖も、亦更に須らく反復玩味して、其の理をして中に浹洽せしむべし。此れ読書為学の法と為すべし。凡そ功を用ゐること此くの如くなれば、則ち鹵莽にして速やかに看過する者と、其の得る所も亦自ら別なり。