慎思録 / 巻之三
老子曰。禍兮福之所倚。福兮禍之所伏。愚謂。倚伏之理。隱微而難見。可畏之甚也。是衆人之所不知。智者之所獨知也。盧子諒所謂福爲禍始。禍作福階。及塞翁之所豫言。亦皆此意而巳。
新字:老子曰。禍兮福之所倚。福兮禍之所伏。愚謂。倚伏之理。隠微而難見。可畏之甚也。是衆人之所不知。智者之所独知也。盧子諒所謂福為禍始。禍作福階。及塞翁之所予言。亦皆此意而巳。
書き下し
老子曰く、禍は福の倚る所、福は禍の伏す所、と。愚謂へらく、倚伏の理は、隠微にして見難く、畏るべきの甚しきなり。是れ衆人の知らざる所にして、智者の独り知る所なり。盧子諒の所謂福は禍の始と為り、禍は福の階と作る、及び塞翁の予め言ふ所も、亦皆此の意のみ。
現代語訳
老子は「禍は福の寄りかかる所であり、福は禍の潜む所である」と言いました。私が思うに、禍と福が寄りかかり潜み合う理はかすかで見えにくく、はなはだ恐るべきものです。これは世間の人が知らず、知恵ある人だけが知っていることです。盧子諒(盧諶)のいう「福は禍の始まりとなり、禍は福のきざはしとなる」や、塞翁があらかじめ言ったことも、みなこの意味にほかなりません。
解説
『老子』第五十八章の「禍は福の倚る所、福は禍の伏す所」を引き、禍福が表裏をなす理は見えにくく恐るべきだと述べます。盧諶(字は子諒)は西晋から東晋の人で、その詩文の句が引かれ、塞翁の話は『淮南子』人間訓の「塞翁が馬」です。益軒は、順調な時にこそ禍の芽が潜み、逆境にこそ福の手がかりがあると見る知恵を重んじました。業績が好調な時の慢心や、失敗の中にある学びを見落とさないための、落ち着いた視点を与えてくれる一条です。
この章句が説くこと
禍福老子塞翁知無常
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