論語 / 雍也篇
樊遲問知。子曰:「務民之義,敬鬼神而遠之,可謂知矣。」問仁。曰:「仁者先難而後獲,可謂仁矣。」
新字:樊遅問知。子曰:「務民之義,敬鬼神而遠之,可謂知矣。」問仁。曰:「仁者先難而後獲,可謂仁矣。」
書き下し
樊遅、知を問う。子曰く、民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂う可し。仁を問う。曰く、仁者は難きを先にして獲るを後にす、仁と謂う可し。
現代語訳
樊遅が知(知恵)についてお尋ねした。先生がおっしゃった。「人として行うべき正しいことに努め、神霊を敬いながらも遠ざけておく。これを知と言ってよい。」(樊遅が)仁についてお尋ねした。(先生が)おっしゃった。「仁者は、難しいことを先にやり、報いを得ることは後回しにする。これを仁と言ってよい。」
解説
知と仁が、どちらも順序の話として答えられている。知は、人の務めを先にし、神霊を後ろに置くこと。敬してはいるが、頼りはしない。祈って解決しようとする前に、やるべきことをやる態度である。仁は、困難を先にし、獲得を後にすること。見返りの算段から入らないという順序である。二つとも、何を信じるかではなく、何から手をつけるかを言っている。実務に落とすと明快になる。判断に迷ったら、自分がいま何を先に置いているかを見る。困難を先に引き受ける人のところには仕事が集まり、得るものを先に数える人のところからは人が離れる。長い目で見た損得は、この順序で決まる。孔子は徳目を抽象で語らず、着手の順番として示した。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
知仁順序先難後獲務め
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礼記・檀弓上孔子曰く、「死に之(ゆ)きてこれを死を致すは、不仁にして為すべからざるなり。死に之きてこれに生を致すは、不知にして為すべからざるなり。是の故に竹は用を成さず、瓦は味(かい)を成さず、木は斫(しゃく)を成さず、琴瑟は張れども平らかならず、竽笙(うしょう)は備われども和せず、鐘磬(しょうけい)有れども簨虡(しゅんきょ)無し。其の明器と曰うは、これを神明にするなり。
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