慎思録 / 巻之二
朱子曰。韓文公曰。人之所以爲性者五。其說最爲得之。篤信謂。韓子說五性。說三品。是語之粹者。可依據。漢唐諸儒之所以不及也。葢說五性者。言其本然也。說三品者。言其氣質也。
新字:朱子曰。韓文公曰。人之所以為性者五。其説最為得之。篤信謂。韓子説五性。説三品。是語之粋者。可依拠。漢唐諸儒之所以不及也。葢説五性者。言其本然也。説三品者。言其気質也。
書き下し
朱子曰く、韓文公曰く、人の性為る所以の者は五、と。其の説最も之を得たりと為す、と。篤信謂ふ、韓子の五性を説き、三品を説くは、是れ語の粋なる者にして、依拠すべし。漢唐の諸儒の及ばざる所以なり。蓋し五性を説く者は、其の本然を言ふなり。三品を説く者は、其の気質を言ふなり。
現代語訳
朱子は「韓文公は『人が性とするものは五つである』と言った。その説は最もよく要を得ている」と言いました。私篤信が思うに、韓子が五性を説き、三品を説いたのは、言葉の純粋なもので、拠り所とすべきです。漢唐の儒者たちが及ばないところです。思うに五性を説いたのは、その本然(もともとの性)を言ったものです。三品を説いたのは、その気質を言ったものです。
解説
唐の韓愈の「原性」の説を評価した条です。韓愈は性を仁・礼・信・義・智の五つとし、人の性を上中下の三品に分けました。益軒はこれを、宋学でいう「本然の性」と「気質の性」の区別の先駆けと読み、五性を本然、三品を気質に当てています。後の二・百八では、この二つの性を分けすぎる宋末の儒者を批判しており、益軒の性論の要となる条の一つです。先人の説のよい所を後の理論で読み直す、という学び方の例でもあります。
この章句が説くこと
性五性気質韓愈本然
関連する章句
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『慎思録』巻之五韓子、性に三品有りと説く。先儒之を議して曰く、気稟同じからず。豈に只三品の能く尽くす所ならんや。推究すれば則ち千百種の多き有り、と。此の説固より是なり。春秋の法、義理を論じて尊厳なり。毫釐の差有りと雖も、辨ぜざること能はず。故に爾か云ふ。然れども人の稟性や、細かに之を析けば、則ち固より千百種の同じからざる有り。韓子之を知らざるに非ず。之を要するに其の大概を析けば、則ち上中下の三品有るに過ぎざるのみ。韓子の言、豈に謬りと為すべけんや。韓子復説く、其の性為る所以の者五、曰く仁義礼智信、と。其の本性の同じきを言ふなり。性の品を説きて、上中下の三有りとす。其の気質の異なるを言ふなり。未だ本性気質の名を発出せずと雖も、其の性を説くこと頗る具備すと謂ふべし。孟子より以後、漢唐の諸儒、此に言及する者無し。嗚呼韓子も亦賢なるかな。凡そ宋儒の韓子を議する、往往刻薄に似たり。恐らくは人を論ずるに恕を以てするの道に非ず。而して此れ啻に備はるを賢者に求むるの言なるか。薛敬軒の韓子を議する、最も是なりと謂ふべし。
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『慎思録』巻之一宋儒は気質の性と天地の性とを以て、分拆して之を言ふ。此れ学者の暁り易きが為なり。其の実人に二性無し。気質の本然、即ち是れ天地の性のみ。性とは本是れ気質の謂なり。朱子曰く、心を公にせざるの人は、書を読むこと能はずと。信なるかな斯の言や。蓋し心を公にせざるの人は、其の心偏邪多し。力学読書すと雖も、其の見る所平正ならず、常に一己の私に徇ひて、之を主張す。是を以て正理を得ること能はず、見る所差多し。書を読むこと能はざる所以なり。
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『慎思録』巻之六性は一なり。本然を以て言ふ者有り、禀受する所を以て言ふ者有り。本然を以て言ふ者は、易の所謂一陰一陽之を道と謂ふ、之を継ぐ者は善なり、之を成す者は性なり。中庸に曰く、天の命之を性と謂ひ、性に率ふ之を道と謂ふ。孟子の性善を言ふ。是れ皆本然を言ふなり。蓋し天地の理は、本自ら善なり。是を以て人の禀性は、其の本善ならざる有ること無し。張子之を天地の性と謂ふ。是れ理を以て言ふ。故に程子曰く、性は即ち理なりと。蓋し本然の性は天命の在る所なり。禀受する所を以て言ふ者有り。人生の初め、陰陽の気を禀くるに、清濁厚薄純駁偏正の同じからざる有り。人の禀受する所、偶然として各異なること此くの如きなり。夫子曰く、性相近しと。孟子曰く、食色は性なりと。又曰く、形色は天性なりとは、此れ皆禀受する所を以て言ふ。故に董子曰く、性は生の質なりと。是れ程張二子の所謂気質の性是れなり。其の禀くる所万殊なり。蓋し性の字は心に従ひ生に従ふ。故に生質を以て言ふ者は、便ち性の字の正訓なり。是れ性の本義なり。性を以て理と為す者は、其の本然を言ふのみ。性の字の正訓に非ざるなり。羅整菴、理一分殊を以て性を説きて、天地気質を分かたず。先正の成説と稍異なると雖も、発明する所有りと謂ふべし。蓋し本然なる者は理一なり。天下の人の禀くる所皆一なり。気質なる者は分殊なり。衆人の禀くる所、各同じからず。羅氏の此の説、後に出づる者は巧なりと謂ふべし。天下の事、漸を以て開くる者、此の類なり。
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『慎思録』巻之四気質とは、何を謂ふや。人は天の気と地の質とを受けて生ず。其の天の気を受くるに、陰陽清濁の異有り。其の地の質を禀くるに、剛柔純駁の殊有り。気と質と、二者之を性と謂ふ。宋儒之を性と謂はずして、気質と謂ふは何ぞや。蓋し性の本然に非ざるを以てなり。故に名を異にするのみ。然れども気質の外に、本然の性有るに非ざるなり。孟子の性善と言ふ者は、其の気質の本然の理を指して、之を性と謂ふなり。
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『慎思録』巻之二董子曰く、性は生の質なり、と。是れ気質の謂ひにして、性を言ふの本義と為すべし。蓋し性は一なり。然れども本然を以て言ふ者有り、気質を以て言ふ者有り。夫子の性相近しと言ふ者は、気質を雑へて之を言ふ。蓋し気禀もて性を言ふ者は、是れ性の本義なり。本然の性は、理の一なるを言ふなり。気質の性は、禀気の万殊有るを言ふなり。気質の本然なる者は理なり。孟子の性善を言ふは、乃ち性の本然を言ふなり。天下古今の性、其の本然なる者は、其の理一なり。故に程子曰く、性は即ち理なり、と。理は是れ性の本然なり。荀楊以下は性の本然を知らず。異論有る所以なり。故に程子直ちに性を指して理と為す。是れ性の本然は即ち理なるを言ふなり。性の善為るを明らかにする所以なり。然りと雖も本然の性も、亦た自ら気質の中に在りて、気質の本然為り。別に一物有りて本然の性と為るに非ず。人豈に二性有らんや。諸を水に譬ふれば、水の清濁純雑有る者は、猶ほ気質のごときなり。其の清き者は、水の本然なり。故に水の本然も、亦た水の気質の中に在り。程子曰く、生之を性と謂ふ。性は即ち気、気は即ち性、生の謂ひなり、と。是れ気質を指して性を言ふ。最も明白と為す。孟子の性善を称するは、惟だ気質の中に於て其の本然を言ふなり。二性有るに非ず。宋季の諸儒は、気質の性と天地の性とを以て、別けて之を言ふ。是れ二性有るなり。通論に非ざるなり。
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