慎思録 / 巻之二
或曰。精進二字。出于法華經。是浮屠之言。不可用。然朱子語中。亦有說勇猛精進者。何也。案。精進二字。出于前漢書叙傳。師古云。精明而進趨也。是先儒之言。自有的據。倭俗古來以食素饌爲精進者非也。
新字:或曰。精進二字。出于法華経。是浮屠之言。不可用。然朱子語中。亦有説勇猛精進者。何也。案。精進二字。出于前漢書叙伝。師古云。精明而進趨也。是先儒之言。自有的拠。倭俗古来以食素饌為精進者非也。
書き下し
或ひと曰く、精進の二字は、法華経に出づ。是れ浮屠の言なり。用ゐるべからず、と。然るに朱子の語の中にも、亦た勇猛精進と説く者有るは、何ぞや。案ずるに、精進の二字は、前漢書の叙伝に出づ。師古云ふ、精明にして進趨するなり、と。是れ先儒の言にして、自ら的拠有り。倭俗の古来素饌を食ふを以て精進と為す者は非なり。
現代語訳
ある人が「精進の二字は法華経に出ている。これは仏教の言葉だから用いてはならない」と言います。それなのに朱子の言葉の中にも「勇猛精進」と説くものがあるのはなぜでしょうか。調べてみると、精進の二字は『漢書』の叙伝に出ています。顔師古は「精しく明らかで、進み向かうことである」と注しています。これは先儒の言葉であって、確かな拠り所があります。わが国の風俗で、昔から野菜だけの食事を食べることを精進と呼ぶのは誤りです。
解説
「精進」という語の出どころを考証した条で、仏教語だから儒者は使うべきでないという意見に対し、『漢書』叙伝の用例と唐の顔師古の注を根拠に、儒家の古典にもある語だと示します。朱子学者として仏教との線引きを気にする一方、言葉の由来は文献で確かめるという益軒の実証的な態度がよく表れています。当たり前に使っている言葉にも来歴があり、思い込みで決めつけず出典に当たる、という姿勢は、調べものの基本として今も大切です。
この章句が説くこと
精進考証出典言葉学問
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