慎思録 / 巻之一
雖有忠信之人。然有其心不正者。蓋緣有喜怒愛惡之偏僻也。可不自省察乎。大學誠意之後。復有正心之工夫。以是也。人性之善也。譬如地道之敏種也。地道無不生於草木。其所以不生者。沙漠磽确之地而巳。然開墾培養。則亦能生茂焉。人性無不善。其所以爲不善者。因頑愚而不開明也。故學貴開發其聰明。人之才有賢愚者。猶地之有肥瘠。上智猶膏腴之地。不待培養。而能生茂。中人以下如瘠土。須加培養之功。
新字:雖有忠信之人。然有其心不正者。蓋縁有喜怒愛悪之偏僻也。可不自省察乎。大学誠意之後。復有正心之工夫。以是也。人性之善也。譬如地道之敏種也。地道無不生於草木。其所以不生者。沙漠磽确之地而巳。然開墾培養。則亦能生茂焉。人性無不善。其所以為不善者。因頑愚而不開明也。故学貴開発其聰明。人之才有賢愚者。猶地之有肥瘠。上智猶膏腴之地。不待培養。而能生茂。中人以下如瘠土。須加培養之功。
書き下し
忠信の人有りと雖も、然れども其の心正しからざる者有り。蓋し喜怒愛悪の偏僻有るに縁るなり。自ら省察せざるべけんや。大学の誠意の後に、復た正心の工夫有るは、是を以てなり。人性の善なるや、譬へば地道の種に敏きが如し。地道は草木を生ぜざること無し。其の生ぜざる所以の者は、沙漠磽确の地のみ。然れども開墾培養すれば、則ち亦能く生茂す。人性は不善無し。其の不善を為す所以の者は、頑愚にして開明ならざるに因るなり。故に学は其の聡明を開発するを貴ぶ。人の才に賢愚有るは、猶ほ地の肥瘠有るがごとし。上智は猶ほ膏腴の地のごとく、培養を待たずして、能く生茂す。中人以下は瘠土の如し。須らく培養の功を加ふべし。
現代語訳
忠信の人であっても、その心が正しくない者がいます。喜怒や愛憎の偏りがあるからです。自分で省みて察しないでいられましょうか。『大学』で誠意の後にさらに正心の工夫があるのは、このためです。人の本性が善であることは、たとえば大地がよく種を育てるようなものです。大地は草木を生じないことはありません。生じないのは、砂漠や石だらけのやせた土地だけです。しかしそこも開墾し養えば、よく生い茂ります。人の本性に不善はありません。不善をなすのは、頑なで愚かで開けていないからです。だから学問は聡明さを開くことを尊びます。人の才能に賢愚があるのは、土地に肥えたところとやせたところがあるようなものです。最上の知恵ある者は肥えた土地のようで、養わなくてもよく生い茂ります。普通の人より下の者はやせた土地のようで、養う努力を加えなければなりません。
解説
この章句が説くこと
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『慎思録』巻之一仁愛善を作すを以て楽しみと為すは、是れ君子の心なり。衆人と雖も、若し志有りて善を好めば、則ち其の之を知り之を行ふや、各其の生質の分に循ひて、之に至ること易し。何となれば則ち人性は本善にして、善を好み悪を悪むは、是れ天性の自然なる者なればなり。故に夫婦の愚不肖も、亦与に知り能く行ふべし。凡そ善を好むの道は、其の守る所約にして、施す所博し。之を施せば則ち悦ぶ者衆し。此れ要道と為すべし。故に学を為すの道は、唯善を為すを以て事と為すのみ。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、田に心なければ、悪心とはいはれまじ。然れども、上田下田とはいふべし。答、然らば土に替りはなく、同じ土なれども、上田下田の替りあるなり。是地に肥たると磽たるとありといへども、土の理に替ることなし。然れば、土は同じ土にてありながら、上田と下田とあり。然りといへども、土に具る所の理は同じ。同きゆへに、漸々に糞を入、土を入れば、下田は中田となる、中田は上田となる。是を人に喩ていはゞ、下田は小人なり、中田は賢人なり、上田は聖人なり。聖人と賢人と小人と替りあれども、元性善は同きゆへに、学ば漸々を以て、小人は賢人となり、賢人は聖人となる。是性は一なる証なり。扠聖人も賢人も小人も、今日活て動くは、呼吸の二つなり。此二つを継ものを見得すれば、形なきものにして、万物の体となるものなり。是を名づけて、善なりとの玉ふ。此性の善なることは、私慮を以て窺ひ知るべきにあらず。孟子の性善は、前にいふ如く、悪に対する善に非ず。誤るべからず。
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『呻吟語』内篇・性命・義理の性は善有りて惡無し虞廷は專ら性善を言はず、曰く「人心惟れ危く、道心惟れ微なり」と。或ひと曰く「人心は性に非ず」と。曰く、「性に非ずとするも可なり。亦た是れ陰陽五行の化生ならずや」と。六經も專ら性善を言はず、曰く「惟れ皇上帝、衷を下民に降し、厥に恒性有り」と。又曰く「天は蒸民を生じ欲有り、主無ければ乃ち亂る」と。孔子も專ら性善を言はず、曰く「之を繼ぐ者は善なり、之を成す者は性なり」と。又曰く「性は相近きなり」「惟だ上智と下愚とは移らず」と。才めて相近しと說けば、便ち是れ一個ならず。相遠きは相近きより脚を起こす。子思も專ら性善を言はず、曰く「道を修むる、之を教と謂ふ」と。性皆善ならば、道胡ぞ修む可けんや。孟子も專ら性善を言はず、曰く「聲色・臭味・安佚は性なり」と。或ひと曰く「這の性は是れ好性なり」と。曰く、「好性ならば如何ぞ君子謂はざる」と。又曰く「心を動かし性を忍ぶ」と。善性豈に忍ぶ可けんや。犬の性、牛の性、豈に性に非ずや。犬・牛の性も、亦た仁・義・禮・智・信の性ならんや。細かに之を推さば、犬の性は猶ほ犬の性のごとく、牛の性は猶ほ牛の性のごときか。周茂叔も專ら性善を言はず、曰く「五性相感じて善惡分かれ、萬事出づ」と。又曰く「幾は善惡なり」と。程伯淳も專ら性善を言はず、曰く「惡も亦た之を性と謂はざる可からず」と。大抵性善を言ふ者は、義理を主として氣質を言はず。蓋し孟子の諸家を折くに自りて始まる。後來の諸儒遂に此の說を主として敢へて異同せず、是れ未だ天地萬物の情を觀ざるなり。義理は固より是れ天賦なり、氣質も亦た豈に人の為ならんや。眾人を論ずる無かれ、即ち堯舜禹湯文武周孔も、豈に一樣の氣質ならんや。愚僭かに為に之を說きて曰く、「義理の性は、善有りて惡無し。氣質の性は、善有り惡有り。氣質も亦た天の人に命じて生と俱に生ずる者なり、之を性と謂はざる可けんや。程子云ふ、『性を論じて氣を論ぜざれば備はらず、氣を論じて性を論ぜざれば明らかならず』と。性と氣とを分かちて兩項と作さば、便ち透徹せず。張子は善を以て天地の性と為し、清濁純駁を氣質の性と為す、支離なるを覺ゆるに似たり。其の實、天地は只だ是れ一個の氣、理は氣の中に在り、萬物に賦して、方めて性を以て言ふ。故に性の字は生に從ひ心に從ふ、生有るの心を言ふなり。設使ひ氣質無くんば、只だ是れ一個の德性のみ、人人都て是れ生知の聖人ならん。千古の聖賢の千言萬語、教化刑名は都て是れ多かりし底なり、何ぞ苦しむ所ありて此くのごとくならんや。這れ都て是れ氣質を降伏し、德性を扶持するなり。案を此に立て、千百世の後の之を駁するを俟つ」と。
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