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講孟余話 / 告子上 総論

余曾テ聞クコトアリ、人性ハ即天理ナリ、天理ハ惡ナシ、故ニ性豈悪アランヤ、且天地ヲ以テ論スルニ、天ハ善アルノミニテ、地ハ善悪混ス、何トナレハ天唯一大陽アリテ万物ヲ発育生長スルノミ、是天ノ善ナリ若大陽ナクンハ、両極ノ下ノ如ク沍寒不毛、人物ノ生育ヲ遂ルコト能ハス、地善ク大陽ノ氣ヲ受テ、万物ヲ発育生長ス、若地ナクンハ、大陽アリト雖トモ、発育生長スヘキ樣ナシ、是地ノ善ナリ然トモ諸ノ水旱飢饉疾疫、皆地氣ノ然ラシムル所ニシテ、是地ノ惡ナリ天ハ関ラズ、曾テ山縣大華翁ノ芸窓筆記ヲ閱スルニ天ハ惡ナキノ說アリ、其意大畧斯ノ如シ、然トモ今座右書ナシ、其全文ヲ擧ルコト能ハズ、故ニ其意ヲ失スルコトアルモ知ルヘカラズ、又其說ヲ偸ムヲ欲セズ、故ニ只曾テ聞クト云是ヲ以テ性善ヲ認ムヘシ、人ニ形氣アルハ、譬ヘハ地ノ如シ、故ニ耳目口鼻アレハ、声色味臭ノ欲アリ、手足アレハ安逸ノ欲アリ、試ニ耳目口鼻手足ヲ除テ、自ラ省ミハ、性善自ラ顕ルヽナリ、已ニ性善ヲ知ラハ、是ヲ施ス者ハ又耳目口鼻手足ニ依ラサルハナシ、故ニ性ハ純善ニシテ、形氣ニ至テハ善悪混ス、然トモ形氣ヲ去テハ、性善ノ功用ヲナスコト能ハス、猶天ハ純善ニシテ、地ニ至テハ善悪混ス、然トモ地ヲ去テハ天ノ功用ヲナスコト能ハサルカ如シ、嗚呼世人形氣ヲ離レテ性善ヲ認ムルコトヲセス、故ニ忠孝モ仁義モ、皆駁雜ニシテ純粹ナラス、一度忠心起レトモ、忽チ利欲ノ念ニ奪レ、一度義心起レトモ、忽チ毀譽ノ間ニ蔽ル、何ソ深ク性善ノ地ニ思ヲ致サヽルヤ

新字:余曽テ聞クコトアリ、人性ハ即天理ナリ、天理ハ悪ナシ、故ニ性豈悪アランヤ、且天地ヲ以テ論スルニ、天ハ善アルノミニテ、地ハ善悪混ス、何トナレハ天唯一大陽アリテ万物ヲ発育生長スルノミ、是天ノ善ナリ若大陽ナクンハ、両極ノ下ノ如ク沍寒不毛、人物ノ生育ヲ遂ルコト能ハス、地善ク大陽ノ気ヲ受テ、万物ヲ発育生長ス、若地ナクンハ、大陽アリト雖トモ、発育生長スヘキ様ナシ、是地ノ善ナリ然トモ諸ノ水旱飢饉疾疫、皆地気ノ然ラシムル所ニシテ、是地ノ悪ナリ天ハ関ラズ、曽テ山県大華翁ノ芸窓筆記ヲ閲スルニ天ハ悪ナキノ説アリ、其意大略斯ノ如シ、然トモ今座右書ナシ、其全文ヲ挙ルコト能ハズ、故ニ其意ヲ失スルコトアルモ知ルヘカラズ、又其説ヲ偸ムヲ欲セズ、故ニ只曽テ聞クト云是ヲ以テ性善ヲ認ムヘシ、人ニ形気アルハ、譬ヘハ地ノ如シ、故ニ耳目口鼻アレハ、声色味臭ノ欲アリ、手足アレハ安逸ノ欲アリ、試ニ耳目口鼻手足ヲ除テ、自ラ省ミハ、性善自ラ顕ルヽナリ、已ニ性善ヲ知ラハ、是ヲ施ス者ハ又耳目口鼻手足ニ依ラサルハナシ、故ニ性ハ純善ニシテ、形気ニ至テハ善悪混ス、然トモ形気ヲ去テハ、性善ノ功用ヲナスコト能ハス、猶天ハ純善ニシテ、地ニ至テハ善悪混ス、然トモ地ヲ去テハ天ノ功用ヲナスコト能ハサルカ如シ、嗚呼世人形気ヲ離レテ性善ヲ認ムルコトヲセス、故ニ忠孝モ仁義モ、皆駁雑ニシテ純粋ナラス、一度忠心起レトモ、忽チ利欲ノ念ニ奪レ、一度義心起レトモ、忽チ毀誉ノ間ニ蔽ル、何ソ深ク性善ノ地ニ思ヲ致サヽルヤ

書き下し

余曾て聞くことあり、人性は即ち天理なり、天理は悪なし、故に性豈に悪あらんや。且つ天地を以て論ずるに、天は善あるのみにて、地は善悪混ず。何となれば天唯だ一大陽ありて万物を発育生長するのみ、是れ天の善なり。若し大陽なくんば、両極の下の如く沍寒不毛、人物の生育を遂ぐること能はず。地善く大陽の気を受けて、万物を発育生長す。若し地なくんば、大陽ありと雖も、発育生長すべき様なし、是れ地の善なり。然れども諸々の水旱飢饉疾疫、皆地気の然らしむる所にして、是れ地の悪なり、天は関らず。(曾て山県太華翁の芸窓筆記を閲するに、天は悪なきの説あり、其の意大略斯くの如し。然れども今座右に書なし、其の全文を挙ぐること能はず、故に其の意を失することあるも知るべからず。又其の説を偸むを欲せず、故に只曾て聞くと云ふ。)是を以て性善を認むべし。人に形気あるは、譬へば地の如し。故に耳目口鼻あれば、声色味臭の欲あり、手足あれば安逸の欲あり。試みに耳目口鼻手足を除きて、自ら省みれば、性善自ら顕るるなり。已に性善を知らば、是を施す者は又耳目口鼻手足に依らざるはなし。故に性は純善にして、形気に至りては善悪混ず。然れども形気を去りては、性善の功用をなすこと能はず。猶ほ天は純善にして、地に至りては善悪混ず、然れども地を去りては天の功用をなすこと能はざるが如し。嗚呼世人形気を離れて性善を認むることをせず、故に忠孝も仁義も、皆駁雑にして純粋ならず。一度忠心起これども、忽ち利欲の念に奪はれ、一度義心起これども、忽ち毀誉の間に蔽はる。何ぞ深く性善の地に思ひを致さざるや。

現代語訳

私はかつてこう聞いたことがある。人の性はすなわち天の理であり、天の理には悪がない。だから性にどうして悪があろうか、と。また天地で論じると、天には善があるだけで、地には善と悪がまじっている。なぜなら、天にはただ一つの大きな太陽があって万物を育てるだけで、これが天の善である。もし太陽がなければ、南北の極地のように凍りついて草木も生えず、人も物も育つことはできない。地は太陽の気をよく受けて万物を育てる。もし地がなければ、太陽があっても育てようがない。これが地の善である。しかし、さまざまな洪水や日照り、飢饉や疫病は、みな地の気がそうさせるもので、これが地の悪であり、天は関わらない。(かつて山県太華翁の『芸窓筆記』を読んだとき、天には悪がないという説があり、その意味はおおよそこのようであった。しかし今は手元に書物がなく、その全文を挙げることができないので、その意味を取り違えているかもしれない。また、その説を盗むことも望まないので、ただ「かつて聞いた」と言うのである。)これによって性善を認めるべきである。人に体と気質があるのは、たとえれば地のようなものだ。だから耳目口鼻があれば音・色・味・匂いの欲があり、手足があれば安楽の欲がある。試しに耳目口鼻手足を除いて自ら省みれば、性善はおのずと現れる。性善を知ったならば、それを行うのもまた耳目口鼻手足によらないものはない。だから性は純粋に善であり、体と気質となると善悪がまじる。しかし体と気質を離れては、性善のはたらきをなすことはできない。ちょうど天は純粋に善であり、地となると善悪がまじるが、地を離れては天のはたらきをなすことができないのと同じである。ああ、世の人は体と気質から離れて性善を認めようとしない。だから忠孝も仁義もみな雑じりものがあって純粋でない。ひとたび忠の心が起こっても、たちまち利欲の思いに奪われ、ひとたび義の心が起こっても、たちまち毀誉褒貶の間に覆われてしまう。どうして深く性善というところに思いを致さないのか。

解説

松陰は、天は太陽のように万物を育てるだけで悪を持たず、地は恵みと災いの両方をもたらすという比喩で、性と体の関係を説きます。性は天のように純善だが、体と欲は地のように善悪がまじる。それでも体がなければ善を行うこともできない、と。長州藩の儒者山県太華の説を借りたことを断り、手元に書がないので正確に引けない、説を盗みたくないから「聞く」と言う、という念の入れ方も印象的です。忠の心が利欲に、義の心が評判にすぐ奪われる、という観察は、善意がなぜ続かないかを考えるときの鏡になります。

この章句が説くこと

性善欲天地形気善意

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