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慎思録 / 巻之一

人非聖人。誰無過。雖有過。知之而能改。則歸無過。故人有過。非所以爲耻。苟私意蔽固。則雖有過。而不能知之。雖知之。又不能改。所以爲可耻也。方其有過時。不可以爲非過。而遮護掩藏。須直爲己之過。顯揚而速改之。然則於其心術也。無所分毫損闕。何耻之有。子貢所謂君子之過也。如日月之食焉。過也人皆見之。更也人皆仰之者。此之謂也。苟耻過遂非。以爲非吾過。而僞飾掩藏。則其爲過也益大。而罅漏百出。所以甚爲可醜也。子夏曰。小人之過也必文者。此之謂也。

新字:人非聖人。誰無過。雖有過。知之而能改。則帰無過。故人有過。非所以為耻。苟私意蔽固。則雖有過。而不能知之。雖知之。又不能改。所以為可耻也。方其有過時。不可以為非過。而遮護掩蔵。須直為己之過。顕揚而速改之。然則於其心術也。無所分毫損闕。何耻之有。子貢所謂君子之過也。如日月之食焉。過也人皆見之。更也人皆仰之者。此之謂也。苟耻過遂非。以為非吾過。而偽飾掩蔵。則其為過也益大。而罅漏百出。所以甚為可醜也。子夏曰。小人之過也必文者。此之謂也。

書き下し

人は聖人に非ず、誰か過ち無からん。過ち有りと雖も、之を知りて能く改むれば、則ち過ち無きに帰す。故に人の過ち有るは、以て恥と為す所に非ず。苟も私意蔽固なれば、則ち過ち有りと雖も、之を知ること能はず。之を知ると雖も、又改むること能はず。恥づべしと為す所以なり。其の過ち有る時に方りて、以て過ちに非ずと為して、遮護掩蔵すべからず。須らく直ちに己が過ちと為して、顕揚して速やかに之を改むべし。然らば則ち其の心術に於て、分毫も損闕する所無し。何の恥か之れ有らん。子貢の所謂君子の過ちや、日月の食の如し。過てば人皆之を見、更むれば人皆之を仰ぐといふ者は、此の謂なり。苟も過ちを恥ぢて非を遂げ、以て吾が過ちに非ずと為して、偽り飾り掩ひ蔵せば、則ち其の過ちたるや益大にして、罅漏百出す。甚だ醜づべしと為す所以なり。子夏曰く、小人の過つや必ず文ると。此の謂なり。

現代語訳

人は聖人ではありません。誰に過ちがないでしょう。過ちがあっても、それに気づいてよく改めれば、過ちがないのと同じことになります。だから人に過ちがあるのは、恥とすべきことではありません。私心で凝り固まっていると、過ちがあっても気づくことができず、気づいても改めることができません。これこそ恥ずべきことです。過ちがあるときに、過ちではないとして、かばい隠してはいけません。すぐに自分の過ちと認め、はっきりと表に出して速やかに改めるべきです。そうすれば心の働きに少しも損なわれるところはありません。何の恥がありましょう。子貢のいう「君子の過ちは日食や月食のようなものだ。過てば人は皆それを見るが、改めれば人は皆それを仰ぐ」とは、このことです。もし過ちを恥じて誤りを押し通し、自分の過ちではないとして、偽り飾って隠せば、過ちはますます大きくなり、ほころびが次々と出てきます。だからひどく醜いのです。子夏が「小人は過つと必ず取り繕う」と言ったのは、このことです。

解説

過ちとの向き合い方を正面から説いた条です。「人誰か過ち無からん」は『春秋左氏伝』宣公二年の「人誰か過ち無からん、過ちて能く改むれば善焉より大なるは莫し」に通じます。子貢の日月の食のたとえと、子夏の「小人の過つや必ず文る」は、どちらも『論語』子張篇にあります。益軒は、過ちそのものではなく、隠したり言い繕ったりすることを恥とします。職場のミスも、早く認めて直す人ほど信頼を得るものです。隠すほど傷が広がるという指摘は、組織の不祥事にもそのまま当てはまります。

この章句が説くこと

過ち改過君子論語

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