新論 / 自題
文政年間。余在史局。平生所持論。著爲七篇。因先師藤先生。而獻之 哀公。雅欲傚出入風議之意。而非爲世人言。故藏之筐中。不敢以示人。時或與一二同志談話。亦取此書以相評論。及其久。稿本漏出。傳播人間。至有活字印刷以行於世者。一日書舗稻田某請曰。此書傳寫。魯魚之訛甚多。願鏤梓以爲正本。余沈吟未決。謂余固短於文辭。字句拙陋。體裁蕪雜。而如論海外形勢。當時書之可徴者極少。其事實亦多疎謬。非加釐正未可以公於世。然衰病日甚。不能用力筆硯。迺不得已。姑允其請。仰正於四方君子。君子唾而棄之乎。將憐而賜刪裁乎。抑用以供席上之談柄乎。或於所論之意。一二有所採擇乎。此書之幸不幸。唯天意所在。安政丁巳孟春會澤安書於正志齋窗下雪城澤俊卿書
新字:文政年間。余在史局。平生所持論。著為七篇。因先師藤先生。而献之 哀公。雅欲傚出入風議之意。而非為世人言。故蔵之筐中。不敢以示人。時或与一二同志談話。亦取此書以相評論。及其久。稿本漏出。伝播人間。至有活字印刷以行於世者。一日書舗稲田某請曰。此書伝写。魯魚之訛甚多。願鏤梓以為正本。余沈吟未決。謂余固短於文辞。字句拙陋。体裁蕪雑。而如論海外形勢。当時書之可徴者極少。其事実亦多疎謬。非加釐正未可以公於世。然衰病日甚。不能用力筆硯。迺不得已。姑允其請。仰正於四方君子。君子唾而棄之乎。将憐而賜刪裁乎。抑用以供席上之談柄乎。或於所論之意。一二有所採択乎。此書之幸不幸。唯天意所在。安政丁巳孟春会沢安書於正志斎窗下雪城沢俊卿書
書き下し
文政年間、余史局に在り。平生持論する所、著して七篇と為す。先師藤先生に因りて、之を哀公に献ず。雅より出入風議の意に傚はんと欲して、世人の為に言ふに非ず。故に之を筐中に蔵して、敢へて以て人に示さず。時に或いは一二の同志と談話して、亦此の書を取りて以て相評論す。其の久しきに及びて、稿本漏出して、人間に伝播し、活字印刷して以て世に行はるる者有るに至る。一日書舗稲田某請ひて曰く、此の書の伝写、魯魚の訛甚だ多し。願はくは梓に鏤めて以て正本と為さんと。余沈吟して未だ決せず。謂へらく余固より文辞に短く、字句拙陋にして、体裁蕪雑なり。而して海外の形勢を論ずるが如きは、当時書の徴すべき者極めて少なく、其の事実も亦疎謬多し。釐正を加ふるに非ざれば未だ以て世に公にすべからずと。然れども衰病日に甚だしく、筆硯に力を用ふること能はず。迺ち已むを得ずして、姑く其の請を允し、正を四方の君子に仰ぐ。君子唾して之を棄てんか。将た憐みて刪裁を賜はんか。抑も用ひて以て席上の談柄に供せんか。或いは論ずる所の意に於て、一二採択する所有らんか。此の書の幸不幸は、唯だ天意の在る所なり。安政丁巳孟春、会沢安正志斎の窓下に書す。雪城沢俊卿書す。
現代語訳
文政年間、私は史局(彰考館)にいた。日ごろ持論としていたことを書き著して七篇とした。亡き師の藤田先生(藤田幽谷)を通じて、これを哀公(水戸藩主徳川斉脩)に献上した。もともと君主のそばに出入りして遠回しに諫め論じるという意にならおうとしたもので、世の人に向けて言ったものではない。だからこれを箱の中にしまって、あえて人に示さなかった。ときに一、二の同志と語り合い、この書を取り出して論じ合うこともあった。久しくたつうちに稿本が漏れ出して世間に広まり、活字で印刷して世に出回るものまで現れた。ある日、書店の稲田某が頼んで言った。「この書の写本には、魯を魚と書き誤るような誤りがたいへん多い。どうか版木に彫って正しい本としたい」と。私は考えこんで決めかねた。思うに、私はもとより文章が下手で、字句はつたなく、体裁も雑然としている。しかも海外の形勢を論じたところなどは、当時は拠りどころとなる書物がきわめて少なく、その事実にも粗い誤りが多い。手を加えて正さなければ、まだ世に公にすべきではない、と。しかし衰えと病は日に日に重くなり、筆と硯に力を注ぐことができない。そこでやむを得ず、ひとまずその頼みを許し、四方の君子に正していただくことにした。君子はこれを唾棄して捨てるだろうか。それとも憐れんで削り正してくださるだろうか。あるいは席上の話の種に用いるだろうか。あるいは論じた趣旨のうち、一つ二つを採ってくださるだろうか。この書の幸不幸は、ただ天意のあるところである。安政丁巳(安政四年)の春の初め、会沢安が正志斎の窓の下で記す。雪城沢俊卿(書家の沢雪城)が書す。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 魏公子列伝魏の公子無忌は、魏の昭王の少子にして魏の安釐王の異母弟なり。昭王薨じ、安釐王即位し、公子を封じて信陵君と為す。是の時、范睢魏を亡げて秦に相たり、魏斉を怨むの故を以て、秦の兵大梁を囲み、魏の華陽の下の軍を破り、芒卯を走らす。魏王及び公子これを患ふ。公子は人と為り仁にして士に下り、士は賢不肖と無く皆謙りて礼もてこれに交はり、敢へてその富貴を以て士に驕らず。士は此を以て方数千里争ひ往きてこれに帰し、食客三千人を致す。是の時に当たりて、諸侯は公子の賢にして客多きを以て、敢へて兵を加へて魏を謀らざること十余年。
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史記 魏公子列伝魏に隠士有り、侯嬴と曰ふ、年七十、家貧しく、大梁の夷門の監者為り。公子これを聞き、往きて請ひ、厚くこれに遺らんと欲す。受くるを肯んぜずして曰く、「臣、身を脩め行ひを絜くすること数十年、終に監門の困しみの故を以て公子の財を受けず」と。公子是に於いて乃ち酒を置きて大いに賓客を会す。坐定まり、公子車騎を従へ、左を虚しくして、自ら夷門の侯生を迎ふ。侯生、敝れたる衣冠を摂め、直ちに上りて公子の上坐に載り、譲らず、以て公子を観んと欲す。公子轡を執ること愈々恭し。侯生また公子に謂ひて曰く、「臣に客の市の屠中に在る有り、願はくは車騎を枉げてこれに過れ」と。公子車を引きて市に入る。侯生下りてその客朱亥に見え、俾倪して故らに久しく立ち、その客と語り、微かに公子を察す。公子の顔色愈々和らぐ。是の時に当たり、魏の将相・宗室・賓客堂に満ち、公子の酒を挙ぐるを待つ。市人皆公子の轡を執るを観る。従騎皆竊かに侯生を罵る。侯生、公子の色の終に変ぜざるを視て、乃ち客に謝して車に就く。家に至り、公子、侯生を引きて上坐に坐せしめ、遍く賓客に賛す、賓客皆驚く。酒酣にして、公子起ち、寿を侯生の前に為す。侯生因りて公子に謂ひて曰く、「今日、嬴の公子の為にするもまた足れり。嬴は乃ち夷門の抱関者なり、而るに公子親ら車騎を枉げ、自ら嬴を衆人広坐の中に迎ふ、宜しく過る所有るべからざるに、今公子故らにこれに過る。然れども嬴は公子の名を就さんと欲す、故に久しく公子の車騎を市中に立たしめ、客に過りて以て公子を観る、公子愈々恭し。市人皆嬴を以て小人と為し、而して公子を以て長者にして能く士に下ると為すなり」と。是に於いて酒を罷め、侯生遂に上客と為る。
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