新論 / 守禦
其四曰、頒守備、天下大名聚會共守江戸、其重内輕外之意則有在焉、然兵常無事而食、驕奢淫佚、足以弱天下之力、而天下要害、有所不守、則亦非所以待夷狄之備也、夫京師者天下之首領、而江戸者其胸膈也、大阪者其咽喉、而相模及房總者江戸之牙唇也、伊勢熱田者神器之所在、而天下神氣之所寓也、皆宜嚴設守備焉、而守兵之規未盡立、救應之約未甚明、有有城壘者、有無城壘者、皆非所以聳動天下使知所警、守備之方、不可以不議定也、
新字:其四曰、頒守備、天下大名聚会共守江戸、其重内軽外之意則有在焉、然兵常無事而食、驕奢淫佚、足以弱天下之力、而天下要害、有所不守、則亦非所以待夷狄之備也、夫京師者天下之首領、而江戸者其胸膈也、大阪者其咽喉、而相模及房総者江戸之牙唇也、伊勢熱田者神器之所在、而天下神気之所寓也、皆宜厳設守備焉、而守兵之規未尽立、救応之約未甚明、有有城塁者、有無城塁者、皆非所以聳動天下使知所警、守備之方、不可以不議定也、
書き下し
其の四に曰く、守備を頒つ。天下の大名聚会して共に江戸を守る、其の内を重んじ外を軽んずるの意は則ち在る有り。然れども兵常に事無くして食み、驕奢淫佚、以て天下の力を弱むるに足る。而して天下の要害、守らざる所有れば、則ち亦た夷狄を待つの備に非ざるなり。夫れ京師は天下の首領にして、江戸は其の胸膈なり。大阪は其の咽喉にして、相模及び房総は江戸の牙唇なり。伊勢・熱田は神器の在る所にして、天下の神気の寓る所なり。皆宜しく厳に守備を設くべし。而るに守兵の規未だ尽く立たず、救応の約未だ甚だしくは明らかならず、城塁有る者有り、城塁無き者有り、皆天下を聳動して警むる所を知らしむる所以に非ず。守備の方、以て議定せざるべからざるなり。
現代語訳
第四は守備を割り当てることである。天下の大名が集まってともに江戸を守ることには、中央を重んじ地方を軽んじるという意図がある。しかし兵はいつも何事もないまま禄を食み、驕り贅沢で放埒になり、天下の力を弱めるのに十分なほどである。そして天下の要害に守られていない所があるなら、それは夷狄に備える用意とは言えない。そもそも京都は天下の頭であり、江戸はその胸である。大坂はその喉であり、相模と房総は江戸の牙と唇である。伊勢と熱田は三種の神器のある所で、天下の神気の宿る所である。みな厳重に守備を設けるべきである。ところが守備兵の規定はまだ十分に立たず、救援し合う取り決めもあまり明らかでなく、城塁のある所もあれば、ない所もあって、どれも天下を奮い立たせて警戒すべきことを知らせるものではない。守備の方法は、議論して定めなければならない。
解説
この章句が説くこと
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『新論』守禦長崎は番舶の輻湊する所、守備素より設けらる。今日の如きは、則ち虜至るべからざる所無くして、海内を挙げて皆長崎と為れり。其の之を守る所以の者も、亦た長崎と何ぞ異ならんや。且つ海外の諸島及び蝦夷地方の如きも、亦た非時に官員を遣はし兵を率ゐて往来巡視せしむるに非ざるよりは、則ち以て声息を察する無く、以て威信を宣ぶる無く、以て人心を固むる無きなり。(蝦夷の地は、世俗より之を視れば、之を得るも益無く之を棄つるも損無きが如し。然れども我棄つれば則ち彼取る、必然の勢なり。異日虜をして盤拠して以て巣窟と為し、以て松前に逼らしめば、則ち奥羽必ず騒動し、往来して沿海に寇せば、則ち天下亦た騒動せん。故に我棄てて彼取らずんば、特に以て棄地と為すのみにして、則ち猶ほ未だ大害と為さず。虜をして之を有たしめば、則ち彼に大利有りて、我に大害有り。力を尽くして之を守らざるを得ざる所以なり。)若し能く之が経制を立て、沿海の諸国及び諸島をして守らざる所無からしめば、則ち兵の江戸に坐食する者分かつ所有りて、粉華奢淫の習革むべく、邦国の君臣、海上寥落の地に往来守備し、宴安を都下に耽るを得ず、兵卒も亦た日に労苦を征役に習ひ、庶幾くは緩急用ふべくして、要害の地、守備始めて全からん。
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孫子・行軍篇敵近くして静かなる者は、其の険を恃むなり。遠くして戦いを挑む者は、人の進むを欲するなり。其の居る所の易なる者は、利あればなり。
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史記 項羽本紀今関に入りて、財物取る所無く、婦女幸する所無し、此れ其の志小に在らず。吾人をして其の気を望ましむるに、皆龍虎を為し、五采を成す、此れ天子の気なり。急ぎ撃ちて失ふ勿かれ。」と。楚の左尹項伯は、項羽の季父なり、素より留侯張良に善し。張良是の時沛公に従ふ、項伯乃ち夜馳せて沛公の軍に之き、私かに張良に見え、具に告ぐるに事を以てし、張良を呼びて与に倶に去らんと欲す。曰く、「倶に死する毋かれ。」と。張良曰く、「臣韓王の為に沛公を送る、沛公今事急有り、亡げ去るは不義なり、語らざるべからず。」と。良乃ち入りて、具に沛公に告ぐ。沛公大いに驚きて、曰く、「之を為すこと柰何(いかん)。」と。張良曰く、「誰か大王の為に此の計を為せし者ぞ。」と。曰く、「鯫生(そうせい)我に説きて曰く『関を距(ふせ)ぎ、諸侯を内(い)るる毋くんば、秦の地尽く王たるべし』と。故に之を聴く。」と。良曰く、「大王の士卒を料るに以て項王に当たるに足るか。」と。沛公默然として、曰く、「固より如かず、且つ之を為すこと柰何。」と。張良曰く、「請ふ往きて項伯に謂ひ、沛公敢へて項王に背かざるを言はん。」と。沛公曰く、「君安んぞ項伯と故有る。」と。張良曰く、「秦の時臣と游ぶ、項伯人を殺す、臣之を活かす。今事急有り、故に幸ひに来りて良に告ぐ。」と。沛公曰く、「君と孰れか少長なる。」と。良曰く、「臣より長なり。」と。沛公曰く、「君我が為に呼び入れよ、吾兄として之に事ふるを得ん。」と。張良出でて、項伯を要(むか)ふ。項伯即ち入りて沛公に見ゆ。沛公巵酒を奉じて寿を為し、約して婚姻を為し、曰く、「吾関に入りて、秋豪も敢へて近づく所有らず、吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。将を遣はして関を守らしむる所以の者は、他盗の出入と非常とに備ふるなり。日夜将軍の至るを望む、豈に敢へて反かんや。願はくは伯具に臣の敢へて徳に倍(そむ)かざるを言へ。」と。項伯許諾す。沛公に謂ひて曰く、「旦日蚤く自ら来りて項王に謝せざるべからず。」と。沛公曰く、「諾。」と。是に於て項伯復た夜去り、軍中に至り、具に沛公の言を以て項王に報ず。
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孟子・離婁章句下孟子曰く、「罪無くして士を殺さば、則ち大夫以て去る可し。罪無くして民を戮せば、則ち士以て徙る可し。」
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史記 春申君列伝春申君相たること二十五年、楚の考烈王病む。朱英、春申君に謂ひて曰く、「世に毋望の福有り、また毋望の禍有り。今、君は毋望の世に処り、毋望の主に事ふ、安んぞ以て毋望の人無かるべけんや」と。春申君曰く、「何をか毋望の福と謂ふ」と。曰く、「君楚に相たること二十余年、名は相国と雖も、実は楚王なり。今、楚王病み、旦暮に且に卒せんとす、而して君は少主に相たらん。因りて代はり立ちて国に当たること、伊尹・周公の如くし、王長じて政を反さん。即ち遂に南面して孤と称して楚国を有たざらんや。此れ所謂毋望の福なり」と。春申君曰く、「何をか毋望の禍と謂ふ」と。曰く、「李園は国を治めずして君の仇なり、兵を為さずして死士を養ふの日久し。楚王卒せば、李園必ず先に入りて権に拠りて君を殺して以て口を滅せん。此れ所謂毋望の禍なり」と。春申君曰く、「何をか毋望の人と謂ふ」と。対へて曰く、「君、臣を郎中に置け。楚王卒せば、李園必ず先に入らん、臣君の為に李園を殺さん。此れ所謂毋望の人なり」と。春申君曰く、「足下これを置け。李園は弱人なり、仆またこれを善くす、且つまた何ぞ此に至らん」と。朱英、言の用ひられざるを知り、禍の身に及ばんことを恐れ、乃ち亡げ去る。
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説苑・建本豊牆磽下は未だ必ずしも崩れざるも、流行潦至れば、壊るること必ず先んず。樹の本浅く、根垓深からざるは、未だ必ずしも橛れざるも、飄風起こり暴雨至れば、抜けること必ず先んず。君子是の国に居りて、仁義を崇めず賢臣を尊ばざるも、未だ必ずしも亡びざるも、然れども一旦非常の変有らば、車馳せ人走り、指して禍至れば、乃ち始めて喉を干し唇を燋がし、天を仰ぎて歎じ、庶幾わくは天其れ之を救わんと、亦難からずや。孔子曰わく、「其の前を慎まずして其の後を悔ゆれば、悔ゆると雖も及ぶ無し」と。詩に曰わく、「其れ啜りて泣く、何ぞ嗟くも及ばん」と。本を先に正さずして末に憂いを成すを言うなり。
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