士規七則 / 序
士規七則 贈毅甫加冠 披繙冊子、嘉言如林、躍々迫人、顧人不讀、即讀不行、苟讀而行之、則雖千萬世、不可得盡、噫、復何言、雖然、有所知矣、不能不言、人之至情也、古人言諸古、今我言諸今、亦詎傷焉、作士規七則、
新字:士規七則 贈毅甫加冠 披繙冊子、嘉言如林、躍々迫人、顧人不読、即読不行、苟読而行之、則雖千万世、不可得尽、噫、復何言、雖然、有所知矣、不能不言、人之至情也、古人言諸古、今我言諸今、亦詎傷焉、作士規七則、
書き下し
士規七則 毅甫の加冠に贈る 冊子を披繙すれば、嘉言林の如く、躍々として人に迫る。顧ふに人読まず、即し読むとも行はず。苟に読みて之れを行はば、則ち千万世と雖も得て尽くすべからず。噫、復た何をか言はん。然りと雖も、知る所有りて、言はざる能はざるは、人の至情なり。古人は諸を古に言ひ、今我は諸を今に言ふ、亦詎ぞ傷まん。士規七則を作る。
現代語訳
士の心得七か条。毅甫(従弟の玉木彦介)の元服に贈る。書物を開けば、良い言葉が林のように並び、生き生きと人に迫ってくる。思うに、人はそれを読まない。たとえ読んでも行わない。もし本当に読んでそれを行うなら、千年万年かかっても行い尽くせはしない。ああ、このうえ何を言うことがあろう。そうではあるが、知っていることがあれば言わずにいられないのは人の真情である。昔の人は昔にそれを言い、今の私は今それを言う。何の差し支えがあろうか。そこで士規七則を作る。
解説
安政二年(一八五五)正月、野山獄に囚われていた二十六歳の松陰が、叔父玉木文之進の子で十五歳の彦介の元服を祝って書き与えた心得です。序で松陰は、良い言葉は本の中にすでに十分あり、足りないのは読むことと行うことだと言い切ります。それでもなお書くのは、知っていることを伝えずにいられないのが人の情だからだ、と。新しい教えを説くのではなく、古人の言葉を今の若者に手渡す役目を引き受ける、という謙虚で熱い書き出しです。読書を行動に結びつけよという主張は、松陰の教育の芯でもありました。
この章句が説くこと
読書実践元服教育言葉
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