史記 / 太史公自序
卒三歲而遷為太史令,紬史記石室金匱之書。五年而當太初元年,十一月甲子朔旦冬至,天歷始改,建於明堂,諸神受紀。
新字:卒三歳而遷為太史令,紬史記石室金匱之書。五年而当太初元年,十一月甲子朔旦冬至,天歴始改,建於明堂,諸神受紀。
書き下し
卒して三歳にして遷太史令と為り、史記・石室金匱の書を紬(つむ)ぐ。五年にして太初元年に当たり、十一月甲子朔旦冬至、天暦始めて改まり、明堂に建て、諸神紀を受く。
現代語訳
父が亡くなって三年後、遷は太史令となり、史官の記録や石室・金匱(宮中の書庫)の書物を読みまとめた。それから五年たって太初元年(前104年)にあたり、十一月甲子の朔日の明け方が冬至となったので、暦が初めて改められ、明堂で新しい暦を定め、神々もその紀(暦)を受けた。
解説
父司馬談の死後、司馬遷が太史令を継ぎ、宮中の書庫の記録を整理し始めたことと、太初暦の制定を記した短い段です。石室金匱とは、石造りの書庫と銅の箱で、国家の重要な文書を納めた所です。司馬遷はここで膨大な記録に向き合い、史記の材料を集めていきました。太初元年、十一月の甲子の日の朔日の明け方がちょうど冬至に当たったのは、暦を新たに始めるのにまたとない巡り合わせでした。司馬遷自身も太初暦の制定に関わっています。そして史記は、この太初の年までを記述の終わりとしました。新しい暦の始まりは、一つの時代を締めくくり、歴史を書き記す好機でもあったのでしょう。父の遺志を受け継いだ人が、まず手をつけたのは記録を読み込み整理することでした。大きな仕事は、先人の残した材料を丹念に読み解くところから始まるのです。
関連する章句
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史記 太史公自序曹参の蓋公を薦めて黄老を言ひしより、而して賈生・晁錯は申・商を明らかにし、公孫弘は儒を以て顕はる。百年の間、天下の遺文古事、畢く太史公に集まらざる靡し。太史公仍(よ)りて父子相続きて其の職を纂ぐ。曰く、「於戯、余維ふに先人嘗て斯の事を掌り、唐虞に顕はれ、周に至りて、復た之を典る。故に司馬氏は世々天官を主る。余に至るか、欽みて念はんかな、欽みて念はんかな」と。天下の放失せる旧聞を罔羅し、王跡の興る所、始めを原ね終はりを察し、盛んなるを見て衰ふるを観、之を行事に論考し、略々三代を推し、秦漢を録し、上は軒轅を記し、下は茲に至る。十二本紀を著し、既に之を科条す。時を並べ世を異にし、年差明らかならず、十表を作る。礼楽の損益、律暦の改易、兵権・山川・鬼神、天人の際、敝を承けて変に通ず。八書を作る。二十八宿は北辰を環り、三十輻は一轂を共にし、運行して窮まり無し。輔拂股肱の臣之に配し、忠信にして道を行ひ、以て主上に奉ず。三十世家を作る。義を扶けて俶儻、己をして時を失はしめず、功名を天下に立つ。七十列伝を作る。凡そ百三十篇、五十二万六千五百字、太史公書と為す。序略して、以て遺を拾ひ闕を補ひ、一家の言を成す。厥れ六経の異伝に協ひ、百家の雑語を整斉し、之を名山に蔵し、副は京師に在り、後世の聖人君子を俟つ。第七十。太史公曰く、余黄帝より以来を述歴して太初に至りて訖はる。百三十篇なり。
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