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史記 / 太史公自序

法家不別親疏,不殊貴賤,一斷於法,則親親尊尊之恩絕矣。可以行一時之計,而不可長用也,故曰「嚴而少恩」。若尊主卑臣,明分職不得相踰越,雖百家弗能改也。名家苛察繳繞,使人不得反其意,專決於名而失人情,故曰「使人儉而善失真」。若夫控名責實,參伍不失,此不可不察也。道家無為,又曰無不為,其實易行,其辭難知。其術以虛無為本,以因循為用。無成埶,無常形,故能究萬物之情。不為物先,不為物後,故能為萬物主。有法無法,因時為業;有度無度,因物與合。故曰「聖人不朽,時變是守。虛者道之常也,因者君之綱」也。群臣并至,使各自明也。其實中其聲者謂之端,實不中其聲者謂之窾。窾言不聽,姦乃不生,賢不肖自分,白黑乃形。在所欲用耳,何事不成。乃合大道,混混冥冥。光燿天下,復反無名。凡人所生者神也,所託者形也。神大用則竭,形大勞則敝,形神離則死。死者不可復生,離者不可復反,故聖人重之。由是觀之,神者生之本也,形者生之具也。不先定其神形,而曰「我有以治天下」,何由哉?太史公既掌天官,不治民。有子曰遷。遷生龍門,耕牧河山之陽。年十歲則誦古文。

新字:法家不別親疏,不殊貴賤,一断於法,則親親尊尊之恩絶矣。可以行一時之計,而不可長用也,故曰「厳而少恩」。若尊主卑臣,明分職不得相踰越,雖百家弗能改也。名家苛察繳繞,使人不得反其意,専決於名而失人情,故曰「使人倹而善失真」。若夫控名責実,参伍不失,此不可不察也。道家無為,又曰無不為,其実易行,其辞難知。其術以虚無為本,以因循為用。無成埶,無常形,故能究万物之情。不為物先,不為物後,故能為万物主。有法無法,因時為業;有度無度,因物与合。故曰「聖人不朽,時変是守。虚者道之常也,因者君之綱」也。群臣并至,使各自明也。其実中其声者謂之端,実不中其声者謂之窾。窾言不聴,姦乃不生,賢不肖自分,白黒乃形。在所欲用耳,何事不成。乃合大道,混混冥冥。光燿天下,復反無名。凡人所生者神也,所託者形也。神大用則竭,形大労則敝,形神離則死。死者不可復生,離者不可復反,故聖人重之。由是観之,神者生之本也,形者生之具也。不先定其神形,而曰「我有以治天下」,何由哉?太史公既掌天官,不治民。有子曰遷。遷生竜門,耕牧河山之陽。年十歳則誦古文。

書き下し

法家は親疏を別たず、貴賤を殊にせず、一に法に断ず。則ち親を親しみ尊を尊ぶの恩絶ゆ。以て一時の計を行ふ可くして、長く用ふ可からず。故に曰く、「厳にして恩少なし」と。主を尊び臣を卑くし、分職を明らかにして相踰越するを得ざらしむるが若きは、百家と雖も改むる能はざるなり。名家は苛察繳繞にして、人をして其の意に反るを得ざらしめ、専ら名に決して人情を失ふ。故に曰く、「人をして倹ならしめて善く真を失ふ」と。夫の名を控へて実を責め、参伍して失はざるが若きは、此れ察せざる可からざるなり。道家は無為、又無不為と曰ふ。其の実は行ひ易く、其の辞は知り難し。其の術は虚無を以て本と為し、因循を以て用と為す。成埶無く、常形無し。故に能く万物の情を究む。物の先と為らず、物の後と為らず。故に能く万物の主と為る。法有りて法無く、時に因りて業を為す。度有りて度無く、物に因りて与に合す。故に曰く、「聖人は朽ちず、時変是れ守る。虚は道の常なり、因は君の綱なり」と。群臣並び至り、各々自ら明らかならしむ。其の実其の声に中る者は之を端と謂ひ、実其の声に中らざる者は之を窾と謂ふ。窾言聴かざれば、姦乃ち生ぜず、賢不肖自ら分かれ、白黒乃ち形はる。用ひんと欲する所に在るのみ。何事か成らざらん。乃ち大道に合し、混混冥冥たり。天下に光燿し、復た無名に反る。凡そ人の生くる所の者は神なり。託する所の者は形なり。神大いに用ふれば則ち竭き、形大いに労すれば則ち敝れ、形神離るれば則ち死す。死する者は復た生く可からず、離るる者は復た反る可からず。故に聖人之を重んず。是に由りて之を観れば、神なる者は生の本なり、形なる者は生の具なり。先づ其の神形を定めずして、「我以て天下を治むる有り」と曰ふは、何に由らんや。太史公既に天官を掌りて、民を治めず。子有り、遷と曰ふ。遷は龍門に生まれ、河山の陽に耕牧す。年十歳にして則ち古文を誦す。

現代語訳

法家は親しい者と疎遠な者を区別せず、貴い者と賤しい者を分け隔てせず、すべてを法によって決める。そうすると、親を親しみ尊い者を尊ぶ情愛が絶えてしまう。一時の策としては行えるが、長く用いることはできない。だから「厳しいが恩情が少ない」というのである。しかし君主を尊び臣下を低くし、職分を明らかにして互いに越権させないことについては、百家といえども改めることはできない。名家は細かく詮索してまつわりつき、人が自分の本意に立ち返れないようにし、もっぱら名目によって決めて人情を失う。だから「人を縛って真実を見失わせやすい」というのである。しかし名目を押さえて実質を問い、あれこれ照らし合わせて誤らないことについては、よく考えなければならない。道家は無為を説き、また「為さざる無し(何でもできる)」ともいう。その実践は行いやすいが、その言葉は理解しにくい。その術は虚無を根本とし、成り行きに従うことを働きとする。決まった勢いも決まった形もない。だから万物の実情を究めることができる。物事の先にも立たず、後にもつかない。だから万物の主となることができる。法があって法がないかのように、時に応じて事業を行う。規準があって規準がないかのように、物事に応じてそれと合わせる。だから「聖人が朽ちないのは、時の変化を守るからである。虚は道の常であり、成り行きに従うことは君主の要である」という。群臣がそろって来たら、それぞれに自ら明らかにさせる。実際の行いがその言葉に合っている者を「端」(正しい)といい、実際の行いがその言葉に合わない者を「窾」(空っぽ)という。空っぽの言葉を聞き入れなければ悪事は生じず、賢い者と愚かな者はおのずと分かれ、白と黒がはっきり現れる。あとは用いたい者を用いるだけであり、何事も成し遂げられないことはない。こうして大道に合い、混沌として奥深い。天下に光り輝き、また名のない状態に帰る。そもそも人を生かしているのは精神であり、宿っているのは肉体である。精神は使いすぎれば尽き、肉体は疲れすぎればすり減り、肉体と精神が離れれば死ぬ。死んだ者は生き返ることができず、離れたものは元に戻ることができない。だから聖人はこれを重んじる。このことから見ると、精神は生の根本であり、肉体は生の道具である。まず自分の精神と肉体を安定させずに「私には天下を治める方法がある」と言っても、何によって治めるというのか。太史公(司馬談)は天官を司るだけで、民を治めることはなかった。子があり、遷といった。遷は龍門に生まれ、黄河と山の南で耕作や牧畜をした。十歳で古文(古い字体の書物)を暗誦した。

解説

「論六家要旨」の後半と、司馬遷自身の生い立ちの始まりです。法家は親疎貴賤を区別せず法で一律に断ずるので一時の策にはよいが長くは使えない、ただ職分を明らかにして越権させない点は変えられない。名家は名目にこだわって人情を失うが、名と実を照らし合わせることは大切だ、と評します。そして道家の術を、虚無を根本とし、時と物に応じて形を変え、臣下の言葉と行いが一致するかを見て賢愚を分けるものだと説明します。さらに精神と肉体を安定させることが治世の前提だと結びます。論のあとで、父が民を治める官ではなかったこと、遷が龍門で生まれ、十歳で古文を暗誦したことへと話が移ります。言葉と実行が一致しているかを見れば人の賢愚はおのずと分かれる、という指摘は、今の人事評価にも通じます。語る内容より、それが行動に表れているかを見ることが大切なのです。

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